「七士殉職供養塔」と聞いて、「あー、あれね。」とすぐ分かる人は、相当のご年配か、相当の郷土史愛好者であろう。
国道17号から「聖石橋」を渡り、最初の信号のちょっと先の右側に立っているのがそうだ。
昭和10年9月にこの付近を襲った台風による豪雨で、低地にある石原町一帯は一面水に浸かってしまった。
(写真提供:(株)国書刊行「ふるさとの想い出写真集 高崎」より)
当時石原には、高崎歩兵第15連隊の将校下士官の住宅数軒があったことから、10人の兵士が選抜されて住民の救助に向かった。
兵士達は、膝まで水に浸かりながら、手をつないで流されないよう目的地まで急いでいたが、その時、烏川と碓氷川の合流点付近で堤防が決壊し、濁流に流されてしまったのである。
これにより、殉職した7人の兵士の栄誉をたたえるべく、昭和11年、高崎市民一同により建てられたのが「七士殉職供養塔」である。
ところで、当時まだ国道17号はなかったと言うと、ちょっと意外に思うかもしれない。
国道17号ができたのは、戦後の昭和26年だそうである。
これについては、面白い話が残っている。
この道路は、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーの命令によってできたと言われている。
当時、進駐軍の家族は週末になると軽井沢に出かけて楽しんでいたようであるが、車で高崎市内を通過するときにひどい渋滞に巻き込まれることが多かったので、それを解消するために造らせたというのである。
真偽の程は、わからない。
国道ができる前の写真が、高崎市発行「開化高崎扣帖」(かいかたかさき・ひかえちょう)に掲載されている。
崖の上が「高崎公園」「頼政神社」である。
その下を「下公園」と呼んでいたらしい。
現在の公園の石段や坂道は、その頃の名残であろう。
私の記憶は、「国道から河原に降りたところに貸しボートがあったなぁ」、というところまでしか遡れない。
国道17号から「聖石橋」を渡り、最初の信号のちょっと先の右側に立っているのがそうだ。
昭和10年9月にこの付近を襲った台風による豪雨で、低地にある石原町一帯は一面水に浸かってしまった。
(写真提供:(株)国書刊行「ふるさとの想い出写真集 高崎」より)
当時石原には、高崎歩兵第15連隊の将校下士官の住宅数軒があったことから、10人の兵士が選抜されて住民の救助に向かった。
兵士達は、膝まで水に浸かりながら、手をつないで流されないよう目的地まで急いでいたが、その時、烏川と碓氷川の合流点付近で堤防が決壊し、濁流に流されてしまったのである。
これにより、殉職した7人の兵士の栄誉をたたえるべく、昭和11年、高崎市民一同により建てられたのが「七士殉職供養塔」である。
ところで、当時まだ国道17号はなかったと言うと、ちょっと意外に思うかもしれない。
国道17号ができたのは、戦後の昭和26年だそうである。
これについては、面白い話が残っている。
この道路は、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーの命令によってできたと言われている。
当時、進駐軍の家族は週末になると軽井沢に出かけて楽しんでいたようであるが、車で高崎市内を通過するときにひどい渋滞に巻き込まれることが多かったので、それを解消するために造らせたというのである。
真偽の程は、わからない。
国道ができる前の写真が、高崎市発行「開化高崎扣帖」(かいかたかさき・ひかえちょう)に掲載されている。
崖の上が「高崎公園」「頼政神社」である。
その下を「下公園」と呼んでいたらしい。
現在の公園の石段や坂道は、その頃の名残であろう。
私の記憶は、「国道から河原に降りたところに貸しボートがあったなぁ」、というところまでしか遡れない。
(参考図書:「開化高崎扣帖」「ふるさとの想い出写真集 高崎」)
【七士殉職供養塔】