前回のおさらいになりますが、一椿斎芳輝は、新(あら)町の延養寺門前にあった旅籠「壽美餘志」(すみよし)田中家の婿養子に入ります。
そして、芳輝もまた養子・喜平司を迎え、家督を譲りました。
喜平司は、田町の呉服太物問屋の倅だったというだけあって、機を見るに敏な人物だったようです。
明治十七年(1884)の鉄道開通を機に、高崎停車場前の一等地に掛茶屋「壽美餘志」を開き、後に旅館「高崎館」とします。
余談ですが、↑の「群馬県営業便覧」を見ると、いま新(あら)町で風情ある佇まいを見せる「豊田屋」は、当時「高崎館」の並び側にあったことが分かります。
この頃の、駅前の風景です。↓
敷かれているレールは、チンチン電車より前に高崎・渋川間を走っていた、「馬車鉄道」のものです。
「高崎館」の三階建て洋館は当時高崎唯一ということで、写真で見てもひときわ異彩を放っています。
しかし残念ながら、明治三十九年(1906)の火災で、この洋館は焼け落ちてしまったそうです。
ただ、異彩を放つ建物は他にもあって、大正六年(1917)発行の「高崎商工案内」では、こんな宣伝文句で売り込んでいます。
「高崎館」の経営は、一椿斎芳輝の養子・喜平司から、その三男・富貴壽の時代になっています。
「サチホコ(しゃちほこ)の乗っている三層楼」の写真が、明治四十二年(1909)発行の「高崎商工案内」に載っていました。
もしかすると、高崎城の天守閣「三層櫓」を模したのでしょうか。
いずれにしても、人目を引く旅館であったことは間違いありません。
昭和に入ると、旅館「高崎館」は「高崎館食堂」と名を変え、建物は菓子店「みやげ屋」など他店に貸していたようです。
写真をクリックして拡大してみてください。
一番上の看板に、「鑛泉旅館割烹 髙崎館別荘」とあるのが分かるでしょうか。
これが、今も観音山羽衣坂の途中にある、高崎の奥座敷「錦山荘」です。
昭和六年(1931)の地図を見ると、「清水鉱泉」と「錦山荘」は別棟だったようです。
また富貴壽の長兄・輝司は、高崎の一流割烹料理店「宇喜代本店」を経営しておりました。
明治四十三年(1910)に発行された「高崎案内」で、編者の早川愿次郎(圭村)が書いた宇喜代評が、なかなか面白いです。
実は不肖・迷道院、「宇喜代」の近くに住んでいたことがありまして、若気の至りから、ここの大広間をお借りして婚礼の儀を取り行うという、身の程わきまえぬ暴挙に及んだことがあります。
新郎になったのは生まれて初めての経験だったので、終始緊張の連続で終わってしまいましたが、いま思えば、内部の様子をもっと写真に残しておけばよかったなぁ、と・・・。
私事はともかく、高崎の華やかなりし頃を彩った「高崎館」、「錦山荘」、「宇喜代」の主人たちが、清水寺の回廊を彩った絵馬額の作者・一椿斎芳輝の子孫であった訳です。
清水寺絵馬額をこのまま湮滅させるに偲びないと思うのは、このような高崎の庶民史と深い繋がりがあるからであります。
できうれば、絵馬額修復に向けて動き出したいものです。
清水寺を恋愛成就パワースポットとして売り出すにも、この絵馬額修復というニュースは、大いに貢献することでしょう。
一年に一枚づつでもいいでしょう。
行政の力と市民の力を合わせて、何とかならないものでしょうか。
そして、芳輝もまた養子・喜平司を迎え、家督を譲りました。
喜平司は、田町の呉服太物問屋の倅だったというだけあって、機を見るに敏な人物だったようです。
明治十七年(1884)の鉄道開通を機に、高崎停車場前の一等地に掛茶屋「壽美餘志」を開き、後に旅館「高崎館」とします。
余談ですが、↑の「群馬県営業便覧」を見ると、いま新(あら)町で風情ある佇まいを見せる「豊田屋」は、当時「高崎館」の並び側にあったことが分かります。
この頃の、駅前の風景です。↓
敷かれているレールは、チンチン電車より前に高崎・渋川間を走っていた、「馬車鉄道」のものです。
「高崎館」の三階建て洋館は当時高崎唯一ということで、写真で見てもひときわ異彩を放っています。
しかし残念ながら、明治三十九年(1906)の火災で、この洋館は焼け落ちてしまったそうです。
ただ、異彩を放つ建物は他にもあって、大正六年(1917)発行の「高崎商工案内」では、こんな宣伝文句で売り込んでいます。
↓
「高崎館」の経営は、一椿斎芳輝の養子・喜平司から、その三男・富貴壽の時代になっています。
「サチホコ(しゃちほこ)の乗っている三層楼」の写真が、明治四十二年(1909)発行の「高崎商工案内」に載っていました。
↓
もしかすると、高崎城の天守閣「三層櫓」を模したのでしょうか。
いずれにしても、人目を引く旅館であったことは間違いありません。
昭和に入ると、旅館「高崎館」は「高崎館食堂」と名を変え、建物は菓子店「みやげ屋」など他店に貸していたようです。
↓
写真をクリックして拡大してみてください。
一番上の看板に、「鑛泉旅館割烹 髙崎館別荘」とあるのが分かるでしょうか。
これが、今も観音山羽衣坂の途中にある、高崎の奥座敷「錦山荘」です。
昭和六年(1931)の地図を見ると、「清水鉱泉」と「錦山荘」は別棟だったようです。
また富貴壽の長兄・輝司は、高崎の一流割烹料理店「宇喜代本店」を経営しておりました。
明治四十三年(1910)に発行された「高崎案内」で、編者の早川愿次郎(圭村)が書いた宇喜代評が、なかなか面白いです。
「 | 主人は非常の魂膽家にて、屢(しばしば)座敷の模樣等をも變更して客の便利を圖る故に總ての注意周到なり。 |
其上廉價に特別の愉快まで行届く、勉強料理店なり。」 |
実は不肖・迷道院、「宇喜代」の近くに住んでいたことがありまして、若気の至りから、ここの大広間をお借りして婚礼の儀を取り行うという、身の程わきまえぬ暴挙に及んだことがあります。
新郎になったのは生まれて初めての経験だったので、終始緊張の連続で終わってしまいましたが、いま思えば、内部の様子をもっと写真に残しておけばよかったなぁ、と・・・。
私事はともかく、高崎の華やかなりし頃を彩った「高崎館」、「錦山荘」、「宇喜代」の主人たちが、清水寺の回廊を彩った絵馬額の作者・一椿斎芳輝の子孫であった訳です。
清水寺絵馬額をこのまま湮滅させるに偲びないと思うのは、このような高崎の庶民史と深い繋がりがあるからであります。
できうれば、絵馬額修復に向けて動き出したいものです。
清水寺を恋愛成就パワースポットとして売り出すにも、この絵馬額修復というニュースは、大いに貢献することでしょう。
一年に一枚づつでもいいでしょう。
行政の力と市民の力を合わせて、何とかならないものでしょうか。