其外劇場高盛座
裏手に出づれば砂賀町
てあい橋をばうち渡り
通り町には安国寺
裏手に出づれば砂賀町
てあい橋をばうち渡り
通り町には安国寺
八島町にあった「高盛座」(こうせいざ)は、高崎で最も早く創立された株式会社組織の劇場でした。
場所はここにありました。
現在の「イノウエビル」の所ですね。
「高盛座」の原点は、文久二年(1862)新(あら)町で起きた「御伝馬事件」にあります。
幕藩体制が終わらんとする明治二年(1869)新町念願の芝居小屋「坂東座」がオープンします。
場所は中山道沿いで「信濃屋旅館」の相向いあたりだったそうですが、明治五年(1872)火災で焼失してしまいます。
しかしすぐに再建され、それを機に「岩井座」と改称します。
時は過ぎて明治十七年(1884)「高崎停車場」ができ、そこから中山道に真っ直ぐつなげる道路を造るとなると、「岩井座」がもろに引っかかってしまいます。
そこで早くもその年、停車場道路北側に面して新しい「岩井座」の小屋を建てて移転します。
そして明治二十七年(1894)の改築を機に「高盛座」と改称、三十七年(1904)に株式会社となります。
ところが不運にも三十九年(1906)大火に遭って焼失してしまいます。
それにもめげず、翌年新築した「高盛座」が下の写真です。
長い歴史を持つ「高盛座」でしたが、昭和七年(1932)閉館となり建物も取り壊されました。
次の「砂賀町」(すながちょう)ですが、いつできた町なのか定かでありません。
「高崎志」(寛政元年/1789)にはこう書かれているだけです。
「 | 昔此所ニ砂賀道膳ト云者住シガ、其後人家モヤゝ多クナリケレバ、城主ヨリ砂賀町ト名ヅケラレシト也」 |
「更正高崎旧事記」(明治十五年/1882)は、こう書いています。
「 | 須永町ヲ砂賀町ト高崎志ニ云ルハ誤リ也。 旧須永町ト初メハ書シ成ベシ。 |
其証ハ、光明寺銅仏ニ元文三戌年八月須永町ト見ユ。 又須永氏ノ文字ハ然有ベシ。 |
|
後ニ砂賀ノ佳字ニ換タル也。」 |
「砂賀道膳」は「須永道善」で、だから初めは「須永町」と書いたんだと。
これを見ると、遅くとも元文三年(1738)以前にできた町のようです。
また、昭和二年(1927)の「高崎市史 上巻」では「醫師 砂賀道善(或ハ全)」とあって、「砂賀道全」説もあるようです。
そして「すなが・どうぜん」は「医師」だとも言ってますね。
町名由来だけでも複雑な「砂賀町」は、その町域も複雑な形をしています。
そこに架かっていたという「てあい橋」の「てあい」って何なんでしょう。
「出逢い」だったら艶っぽくていいですけどね。
「高崎の散歩道 第十二集下」の吉永哲郎氏によると、「ピカデリーの前のみちと昔の中山道とぶつかるT字路にかかっていた橋で、通町との境にあった。」そうです。
その「てあい橋」を渡ると通町の安国寺ですが、現在は「慈光通り」の南側に移動しています。
「安国寺」については、過去記事をご覧ください。
◇史跡看板散歩-146 箕輪の安国寺跡
はい、今回はこの辺で。