前回の「妙福寺」参道入り口から南へ40m、住宅と住宅の間の細道を入ると割と急な坂になります。
その坂を下りきった所に、「安国寺跡」の史跡看板が建っています。
看板にあるように、420年も前に高崎城下へ移ってしまったので、今は何の痕跡もありません。
という訳で、ここからは高崎城下の「安国寺」を見てみましょう。
安政三年(1856)の絵図を見ると、大手門から真っ直ぐの道は、「安国寺」でどん突きになっています。
「大信寺」と隣接していて、けっこう大きな敷地です。
明治になると、敷地は大幅に小さくなり、北側に小道が抜けます。
時代はだいぶ下って昭和初め頃の風景ですが、突き当りの大屋根が「安国寺」です。
兵隊さんが何人か歩いている右側に白い柱が建ってますが、たぶんこれは「道路元標」だと思います。
大正時代に建てられたものはもっと大きな「道路元標」でした。→◇町の元標、道の元標
昭和二十八・九年の都市計画事業により、どん突きだった道は「安国寺」を割くように東に抜け、本堂も解体・新築せざるを得なくなりました。
解体前の旧本堂です。
そうして出来た道路は、「安国寺」の山号・慈光山から取って「慈光通り」と名付けられ、「安国寺」は「慈光通り」の南側にビルを建て、本堂は二階に新築して現在に至っています。
本堂への坂の途中に、由緒を刻んだ石碑があります。
手前の植木で字が読みにくいですが。
墓地は当時「慈光通り」を挟んだ北側にありましたが、平成八年(1996)に若田町の「八幡霊園」隣接地に造成した「安国寺別院」に移転しています。
その墓地に、面白い人物のお墓がありますので、ご紹介いたします。
「滅法弥八」(めっぽう・やはち)と呼ばれたその人物の逸話を、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」から転載します。
この滅法弥八、足も速いが喧嘩っ早いところもあったようで。
これが、弥八郎の身の不運となります。
うーん、さてもさても・・・。
その坂を下りきった所に、「安国寺跡」の史跡看板が建っています。
看板にあるように、420年も前に高崎城下へ移ってしまったので、今は何の痕跡もありません。
という訳で、ここからは高崎城下の「安国寺」を見てみましょう。
安政三年(1856)の絵図を見ると、大手門から真っ直ぐの道は、「安国寺」でどん突きになっています。
「大信寺」と隣接していて、けっこう大きな敷地です。
明治になると、敷地は大幅に小さくなり、北側に小道が抜けます。
時代はだいぶ下って昭和初め頃の風景ですが、突き当りの大屋根が「安国寺」です。
兵隊さんが何人か歩いている右側に白い柱が建ってますが、たぶんこれは「道路元標」だと思います。
大正時代に建てられたものはもっと大きな「道路元標」でした。→◇町の元標、道の元標
昭和二十八・九年の都市計画事業により、どん突きだった道は「安国寺」を割くように東に抜け、本堂も解体・新築せざるを得なくなりました。
解体前の旧本堂です。
そうして出来た道路は、「安国寺」の山号・慈光山から取って「慈光通り」と名付けられ、「安国寺」は「慈光通り」の南側にビルを建て、本堂は二階に新築して現在に至っています。
本堂への坂の途中に、由緒を刻んだ石碑があります。
手前の植木で字が読みにくいですが。
墓地は当時「慈光通り」を挟んだ北側にありましたが、平成八年(1996)に若田町の「八幡霊園」隣接地に造成した「安国寺別院」に移転しています。
その墓地に、面白い人物のお墓がありますので、ご紹介いたします。
「滅法弥八」(めっぽう・やはち)と呼ばれたその人物の逸話を、田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」から転載します。
「 | 滅法弥八、本名は長野弥八郎、高崎藩士の家に生まれ、親譲りの勇猛果敢な男だったとある。武技に練達し、奉公の念がはなはだ厚かったという。 |
時の藩主大河内輝延は馬術に長じており、馬を駆って、高崎から百キロ余の道程を、一日で江戸藩邸に達した。 | |
弥八郎は徒歩でこれに従い、輝延が江戸藩邸に着いてふと見ると、弥八郎もあとに従っていた。 これには輝延もたいへん驚き、『滅法早かったな』とおほめの言葉をかけたという。 この後、『滅法弥八』の名が一藩に高まった。」 |
この滅法弥八、足も速いが喧嘩っ早いところもあったようで。
「 | この弥八が江戸在番の日、輝延に従って郊外に遊んだ。 たまたま幕府の鷹匠が二人いたので、輝延も鷹狩りに興味があったから、その鷹を借りようとした。 一方は大名、一方は幕臣、身分のちがいはあるが、鷹匠は将軍家直属の臣たることをかさに着て、『将軍家に対して無礼だぞ』と横柄にとがめた。 |
輝延の家臣は事面倒と、平あやまりにあやまったが、彼らはこれにつけあがって聴かないばかりか、まいない金を強要した。 輝延の従臣はそれに従って、金子若干を与えて事をおさめようとした。 |
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この様子を見て、おさまらないのは剛直な弥八郎である。 自分が処理するからと、輝延主従の一行を立ち去らせ、大喝一声、鷹匠の鷹をうばってこれをひねり殺した上、鷹匠をも一刀のもとに惨殺してしまった。」 |
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これが、弥八郎の身の不運となります。
「 | 輝延のために義を尽くした弥八郎ではあったが、輝延は幕府をはばかり、弥八郎を追放した。 |
この命(めい)を弥八郎に伝えたのは国家老深尾又右衛門だが、弥八郎はこの命を受けると、『貴殿はかって暴漢に会ったとき、小生がこれを助けた。 その恩を忘れないならば、貴殿がここに伝えず、他の人に代わってもらって君命を伝えるべきだろう。 いま得々として来るとは、恩義を忘れたたわけ者だ。とっとと帰れ。』 そう言ってこれを追い帰し、その夜、深尾家に行ってこれを殺してしまった。 実に文政六年(1823)十一月のことだった。 |
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弥八郎はこれから逃れて京都に入ったが、匕首(あいくち)一丁で捕吏八人とたたかい、数人を殺したのち捕えられ、高崎に押送された上、処刑された。 これは文政八年(1825)二月二日のことだという。」 |
うーん、さてもさても・・・。
【箕輪の安国寺跡】
【安国寺】
【安国寺別院】