白銀町(しろがねちょう)に
元紺屋(もとこうや)
旭町には専売の
高崎煙草製造所
日々の職工五百人
元紺屋(もとこうや)
旭町には専売の
高崎煙草製造所
日々の職工五百人
「旭町」は「八島町」の隣町で、どちらも明治三十五年(1902)にできた町です。
町名の由来は、高崎の町の東方で「朝日が昇る方角」だからという説と、通町との境の遠構え堀に「旭橋」という橋が架かっていたからという説があります。
あるいは、その両方なのかも知れませんね。
その「旭町」に「高崎煙草製造所」があったという歌詞なのですが、昭和三十九年(1964)に日本専売公社高崎地方局が発行した事業統計には、「明治三十八年二月、高崎市八島町に高崎たばこ製造所が創設され、刻たばこの製造を開始した。」ということで、「八島町」と書かれています。
さて、どっちなんでしょう。
明治四十年(1907)の地図を見てみると、黄色くマークしたところがどうも「高崎煙草製造所」らしいのです。
もしここがそうだとすると、やはり「八島町」ですね。
今の「高崎オーパ」の辺りです。
「煙草製造所」が造られたのは、日露戦争による財政悪化を補うのが目的でした。
明治三十九年(1906)に大蔵省が発行した「明治三十七八年戦時財政始末報告」に、こう書かれています。
「 | 政府ハ明治三十七八年戰後經營ノ必要ニ依リ、葉煙草専賣制度ヲ採用シ、明治二十九年三月葉煙草専賣法ヲ公布シ、同三十一年一月ヨリ之ヲ實施シ、爾後数次法令ノ改正ヲ行ヒタリ、 |
要ハ純益ノ增収ヲ圖リ以テ歳入ノ增加ヲ期スルニ在リ、 | |
乃チ實行六年、純益漸ク加ハリ明治三十六年度ニ至リテハ、其額實ニ壱千四百八拾九萬餘圓ニ上レリ、 | |
之ヲ煙草税則施行ノ當時ニ於ケル印紙税ノ収入約參百萬圓ニ比スレハ五倍ノ增加ニシテ、葉煙草専賣ノ性質上純益ハ其極度ニ達シタリ。」 |
「高崎の産業と経済の歴史」(高崎経済大学付属産業研究所編)には、こう書かれています。
「 | 日清戦争後、財政の膨張は不可避であった。 |
国家予算のうち経常費に当たるものは租税で補充するとなると、消費税によるしかなかった。 | |
というのは所得税は日本資本主義をより一層強化するため、産業保護上、これ以上の増税を極力避けたかったからであり、地租は農業の振興のためにも、どちらかと言えば漸減の一途をたどっていたから、ふくれ上がった戦後財政をまかなう消費税政策の一環として、タバコ課税は避けられなかったのである。」 |
ということで、「煙草税制」が明治九年(1876)から施行され、初めは卸売り・小売りに対する営業税と印紙税だけでしたが、明治十六年(1883)の改正で製造にも課されるようになりました。
明治二十三年(1890)当時、高崎には249人の煙草業者がいたそうですから、それだけでも相当な税収でしょうが、「専売制」にしたらその五倍に増えたというのです。
「専売制」になるとはどういうことか、「高崎の産業と経済の歴史」に書いてあります。
「 | 葉タバコが専売になるということは、葉タバコの専売権を政府が掌握することを意味する。 すなわち政府がタバコ耕作者から葉タバコを買い上げ、一定の収入率をかけて民間の製造業者に払い下げることになり、耕作者は政府以外の者に売り渡したり、自ら消費することができなくなるということである。 だから製造業者はこの払い下げ葉タバコ以外を原料として加工製造することを禁じられることになる。(略) |
だが葉タバコだけを専売にして製造は自由という状態では、葉タバコの横流しや闇行為などが行われ易かったことから、製造もまた政府の手に掌握することによって不正行為を抑止することが出来ると政府は考えるようになった。」 |
こうして「高崎煙草製造所」を含め全国34ヵ所に「煙草製造所」が造られた訳ですが、当初は政府がすべての煙草を製造する能力はなく、大正二年(1913)まで民間の刻み煙草製造業者への委託が続きました。
そして「高崎煙草製造所」は、大正六年(1917)鶴見町の新工場に移転し、大正十年(1921)に「高崎地方専売局」と改称されます。
「高崎地方専売局」は、昭和十六年(1941)「東京地方専売局高崎支局」と改称。
ところが昭和二十一年(1946)再び「高崎地方専売局」に。
と思っていたら、昭和二十四年(1949)こんどは「日本専売公社高崎地方局」となって、高松町の新工場に移転します。
そうこうする内、倉賀野工業団地内に新工場の建設が始まり、昭和四十一年(1966)には鶴見町工場も高松町工場も畳んで移転してきます。
昭和六十年(1985)になると、「専売公社」は民間企業「日本たばこ産業株式会社」(JT)となります。
しかし平成十七年(2005)倉賀野工場は操業を停止、ついに高崎の「煙草製造所」は煙のように消えていきました。