弓町真町羅漢町
五百羅漢を安置せる
天台宗の法輪寺
前に連なる北通り
五百羅漢を安置せる
天台宗の法輪寺
前に連なる北通り
現在の「弓町」「真町」「羅漢町」です。
高崎の歴史書の原典ともされる「高崎志」でも、「弓町」(ゆみちょう)と「真町」(しんちょう)はごく簡単な記述があるだけです。
「 | 新町※(しんちょう)ハ羅漢町東小路ヨリ、南ニ入、左右皆組屋敷ニシテ、町家ナシ。 |
弓町ハ、羅漢町ヨリ磬撃町(かねうちまち)マデノ間ヲ云、是所モ左右組屋敷也、弓組ナル故ニ名ヅク、 今ハ此辺縦横ノ通ヲ、総テ弓町ト呼也、北ニ行ケバ九蔵町、大雲寺ノ前ニ出ル、 昔ハ上羅漢町ト云シト也。」 |
※ | 江戸期は「新町」と書いて「しんちょう」と読ませていたが、「新町」(あらまち)と紛らわしいので、明治になって「真町」と改められた。(高崎の地名) |
安政三年(1856)の絵図には、「新(しん)町」も「弓町」も表記されていません。
「弓町」が「上羅漢町」と言われていたように、「新(しん)町」も「羅漢町」分だったのだろうと「更正高崎旧事記」には書かれています。
「羅漢町」について「高崎志」はこう書いています。
「 | 羅漢町ハ通町通リノ東ニアリ、昔ハ五百羅漢町ト云シヲ、今ハ畧シテ羅漢町ト呼也、由来未詳、法輪寺ノ山号ニ拠テ名付シカ、又町名ニ因テ山号トセシカ不可知、此町モ南北ノ通也。」 |
しかし「更正高崎旧事記」には、こう書かれています。
「 | 老平云、此町ハ羅漢堂有リ、因テ町名ハ自然ニ呼シガ、後町ノ名トハ成也。 |
其証ハ金井宿、馬上宿ノコロ、此町ノ出口法輪寺ノ南通リ無縁堂ヘノ道、下野武蔵ヘノ往還ニシテ、倉賀野宿並森村ヘノ通リナリ。 | |
其古絵図ニ今ノ羅漢堂ノ名載セアリ。 | |
然レバ羅漢アリテ後法輪寺ヲ開基シ、以テ山号ニモ負ハセシ事云ヲ不俣也。」 |
その古絵図、たしかに「ラカン」と書かれたお堂のようなのがあります。
「金井宿、馬上宿の頃」というのは、高崎城築城前ですが、「法輪寺」の開山は高崎藩主・酒井家次の時代(慶長九年/1604~元和二年/1616)と言われているので、「羅漢堂」の方が先だった訳です。
明治三十年(1897)の地図には、「弓町」も「真町」も表記されています。
「北トウリ町」というのは、歌詞の「前に連なる北通り」つまり「北通町」のことです。
「通町」の北にある町ということで、明治四年(1871)にできたのですが、どちらも昔の古い中山道の通りです。
それらの町の東側一帯は一面の田畑で、大類村へ行く道が一本続いています。
その道の先にあったのが、前回の「大手前の子」の一文に出てくる「むえんど」(無縁堂)です。
また、同書で「二十三日の三夜さん」と言ってるのは、「法輪寺」の縁日のことです。
その「三夜さん」(二十三夜塔)は道路拡幅の際に境内から除き、現在は石屋さんに預けたままになっているそうです。
さて、寺と町の由来となった「五百羅漢」を拝みに、「法輪寺」へ行ってみました。
令和三年(2021)に新築落成して、きれいになりました。
山門の脇に「五百羅漢」の説明板が建っていました。
撮影の許可を頂き本堂に上がらせて頂くと、須弥壇の右横に「阿羅漢」という扁額が掲げられた小部屋があり、その中に羅漢様がお揃いでした。
因みに、この扁額の文字は一路居士の筆らしいです。
小部屋に納まりきらない羅漢様は、本堂の天井近い三方にぐるりと安置されています。
よく、「五百羅漢」の中には、自分に似たのが必ず一つあると言いますが。
これかなぁ・・・。
いやぁ、まいった、まいった。