北の隣の大信寺
遺愛の松にあふひ(あおい)の紋
呑龍上人勧請し
縁日は月の初八日ぞ
遺愛の松にあふひ(あおい)の紋
呑龍上人勧請し
縁日は月の初八日ぞ
「北の」というのは、「安国寺の北の」ということですね。
いまの「安国寺」と「大信寺」は隣という感じはしませんが、「高崎唱歌」がつくられた頃はまさに隣り合っていました。
「遺愛の松」というのは、大信寺に眠る「駿河大納言・徳川忠長」の霊廟にあった松です。
この松について、昭和二年(1927)版「高崎市史 下巻」には、こう書かれています。
「 | 忠長ノ遺骸ヲ葬ル際、其塚上ニ遺愛ノ松ヲ植ユ、今ヤ高サ五十尺餘、太サ一丈八尺ニ過グ、 |
口碑ニ云フ、忠長江戸ヲ怨ム故ニ枝葉江戸ニ向カッテ延ビズト、 | |
本市唯一ノ大木ナルモ、惜哉汽車ノ煤煙ト蟲害ノタメ、殆ンド枯死セントス。」 |
徳川忠長の墓がなぜ「大信寺」にあるのかは、あまりに有名な話なので改めて詳述することもないのですが、一応過去記事を上げておきます。
◇殿様に縁のある日(その壱)
上毛かるたの「太田金山子育て呑龍」で馴染みの深い「呑龍上人」は、太田市「大光院」の開祖です。
「子育て呑龍」と言われる所以は、太田市のHPにこう書いてあります。
「 | 乱世後の人心は乱れ、天災等の影響で生活は困難を極めていたため、捨て子や間引きなどの非道が横行していました。 |
上人は、その非道を憂い、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育いたしました。このため、「子育て呑龍」と呼ばれ・・・」 |
その「呑龍上人」の分像を「大信寺」に勧請し安置したのが、明治九年(1876)です。
「子育て呑龍さん」を勧請したのは、「高崎幼児園」(現・明徳幼稚園)を併設してたからなのかなと思ったのですが、幼児園の開園は大正八年(1919)なので、そういうことではなかったようです。
「呑龍さま」の縁日はたいそう賑わったそうですが、やらなくなってから、もう50年ほど経つそうです。
どんな様子だったのか、連雀町生まれの田中友次郎氏が著書「大手前の子」に書き残してくれています。
「縁日の宵」 | ||
月の八日は呑龍さま、二十三日は三夜さん、二十七日成田山の縁日である。 縁日商人が縁日の日取りを忘れないように、町の子供らも、縁日の日を忘れなかった。 |
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この三つの縁日は、いつも人出で賑わった。 狭い参道の両側に、ブッキリ飴屋、カルメ屋、しんこ屋、松皮煎餅屋、玩具屋、香具師(やし)の店の電灯、ランプ、アセチレン瓦斯、その色とりどりの光の渦、ふかし饅頭、煮込みおでんの匂いと人いきれの中を、人並みにもまれながら、店を一つ一つ見ていくのは楽しかった。 境内に入ると、見世物小屋が盛んに客を呼んでいる。(略) |
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呑龍さん(大信寺)は、家に一番近かったうえに、子供の神様(子育呑竜)というので、子供を背負ったり、子供の手を引いたお母さん達の参詣が多かったから、僕には最も親しみがあった。(略) | ||
成田山も法輪寺も、また大信寺も、今は完全に町中になってしまったが、この物語の明治末期には、何れの寺も裏手に高崎田圃が迫っていた。 | ||
大信寺の裏からは、黒い高崎駅や、赤い煉瓦の倉庫が見え、法輪寺はむえんど(無縁堂)の森が、成田山からは電車山が見渡された。」 |
田中氏は明治三十四年(1901)生まれなので、九歳頃の記憶なんでしょうか。
よく憶えているもんですね。