「駅から遠足」ということで、まず「高崎駅」のことからお話しいたします。
「高崎駅」は、明治十七年(1884)「中山道鉄道」(現高崎線)の「高崎停車場」として開設されました。
詳しくは、過去記事「さすらいの春靄館」をご覧ください。
ところで、現在何の不思議も感じない「高崎駅」の場所ですが、実はここに開設するについては、長い長い物語があるのです。
長い話になりますが、どうぞお付き合いください。
まずは、この地図をご覧ください。
この当時の高崎の中心地は本町・田町周辺であることも、家の密集具合からお分かり頂けると思います。
普通なら、もっと中心市街地に近い所へ停車場を造った方が、アクセス道路を造るにも短く済むはずです。
車社会の現在ならともかく、ほとんどの人が歩きの時代、利用者にとっても便利なはずですし。
にも拘らず、「我が町に停車場を。」とする新町に対し、高崎中の有力者も公官吏も誰一人反対する者がいなかったというのです。
その理由の一つが、幕末の新町に起きた「御伝馬事件」です。
新町の延養寺に、その事件の記念碑が建っています。
「伝馬」とは律令時代からある制度で、宿駅から宿駅へ荷物を継ぎ送る輸送システムです。
このシステムは江戸時代になってからも続いており、高崎宿では初め本町のみが伝馬業務を行っていました。
しかし、「参勤交代」による諸侯の往来が頻繁になると、本町一町では負担が大きいということで、田町と新町を加えた三町で月を三分して交替であたることとなったのです。
伝馬を負担する見返りに地子(宅地年貢)は免除されるものの、継立に要する人馬を常に用意しておかねばならぬ等、その費用負担は町にとって大きなものでした。
特に本町や田町と異なり、旅籠屋が主で巨商・豪商という店が少ない新町にとって、その負担の重さは年々嵩む一方で、もう耐えきれないところまで来ていました。
そこへ追い討ちをかけたのが、文久二年(1862)正月二十七日に本町から発生した火災です。
後に「百足屋火事」と称されたこの火災は折からの北風に煽られ、城下の7割が焼失する大火となり、新町も類焼の憂き目に遭ってしまいます。
新町では町内一同が協議し、当時高崎城下では禁じられていた「相撲、旅芝居、見世物の興業」と「旅籠に飯盛女を置くこと」の許可を高崎藩に求め、その利益を以て町の復興と伝馬業務の継続を図ろうとします。
しかし、その請願は受け入れられず、いよいよ切迫した町民惣代はついに箱訴を以て幕府へ直訴に及んだのです。
これによっても請願の実現を見ることはなく、それどころか町内の主だった者14名が入牢あるいは手錠腰縄で他町預けとなる始末でした。
ますます困窮を極めた新町に、さらなる困難が舞い込みます。
元治元年(1864)水戸天狗党を追討するため、幕府若年寄の田沼玄蕃らが高崎に宿泊することとなり、その費用300両を、あろうことか高崎藩は伝馬を務める町に負担させようとしたのです。
慶応二年(1866)もうこれ以上伝馬業務を続けることは出来ない、請願内容が取り上げられないのであれば厳罰を覚悟して御役御免を願い出ようと、悲壮な決断をするまでに追い詰められます。
この事態をこのまま傍観するには忍びないと動いたのが、寄合町の中島伊兵衛と連雀町の関根作右衛門でした。
両氏は各町の有志と図り、問屋場入費助合として月30両、伝馬永続助成として500両を藩の御納戸へ上金し、その利息として年50両を新町へ下付されるように取り計らいました。
このおかげで、新町は辛うじて最悪の事態を回避できましたが、騒動を起こした罪によりまたもや首謀者2名が居町払い、79名が過料を申し付けられます。
この中には、問屋年寄・矢島八郎右衛門も入っていましたが、心労が重なったものか騒動の最中に病死しています。
その子・矢島八郎はその時14歳でしたが、断食をして父の死を嘆き悲しむその姿を見て、感動しない者はなかったといいます。
八郎は、八郎右衛門を襲名して問屋年寄見習となり、明治と変わってからは戸長となって町政に携わるようになります。
明治六年(1873)には、運輸業「中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社」を設立して高崎-東京間に郵便馬車を走らせるなどの事業を興しますが、心はいつも苦しかった新町の発展を願っていたに違いありません。
明治十四年(1881)に設立された日本鉄道会社により、上野-前橋間に鉄道が敷設されることを知った八郎は、逸早く「高崎停車場」の新町誘致に動きます。
高崎各町からの誘致話もあったであろう中、八郎は高崎中の人々の同意を得て、新町に「高崎停車場」を誘致することに成功したのです。
停車場建設用地は矢島八郎が寄附し、中山道へのアクセス道路となる土地は町の有志が寄附し、停車場の建物は高崎町民の寄付により建設されました。
そこには、「御伝馬事件」により辛酸を嘗めてきた新町への厚い温情があったのです。
後にそのことについて、八郎自身が「御伝馬事件の概要」の中でこう述懐しています。
また、新町の危機を救った中島伊兵衛、関根作右衛門両氏等についても、このように述懐しております。
この「御伝馬事件」がなかったら、また高崎中の人が新町の窮状に対する温情を持つことがなかったら、「高崎駅」は今の場所にはなかったかも知れません。
あの町外れに造った「高崎停車場」の周辺は、今や高崎市の中心市街地へと変貌しました。
反面、新町の窮状に同情して誘致を禅譲したかつての中心市街地は、シャッター通りへと変貌しています。
さて、もしも矢島八郎があの世から蘇ったとしたならば、今の高崎に何を思い、何を為すのでありましょうか。
長い話を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
「高崎駅」は、明治十七年(1884)「中山道鉄道」(現高崎線)の「高崎停車場」として開設されました。
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写真は、その開通式の「高崎停車場」構内の様子なのですが、大変な世情の中での緊迫した開通式となりました。詳しくは、過去記事「さすらいの春靄館」をご覧ください。
ところで、現在何の不思議も感じない「高崎駅」の場所ですが、実はここに開設するについては、長い長い物語があるのです。
長い話になりますが、どうぞお付き合いください。
まずは、この地図をご覧ください。
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「高崎停車場」が開設された翌年の地図ですが、ずいぶん町外れに造ったもんだと感じませんか?この当時の高崎の中心地は本町・田町周辺であることも、家の密集具合からお分かり頂けると思います。
普通なら、もっと中心市街地に近い所へ停車場を造った方が、アクセス道路を造るにも短く済むはずです。
車社会の現在ならともかく、ほとんどの人が歩きの時代、利用者にとっても便利なはずですし。
にも拘らず、「我が町に停車場を。」とする新町に対し、高崎中の有力者も公官吏も誰一人反対する者がいなかったというのです。
その理由の一つが、幕末の新町に起きた「御伝馬事件」です。
新町の延養寺に、その事件の記念碑が建っています。
「伝馬」とは律令時代からある制度で、宿駅から宿駅へ荷物を継ぎ送る輸送システムです。
このシステムは江戸時代になってからも続いており、高崎宿では初め本町のみが伝馬業務を行っていました。
しかし、「参勤交代」による諸侯の往来が頻繁になると、本町一町では負担が大きいということで、田町と新町を加えた三町で月を三分して交替であたることとなったのです。
伝馬を負担する見返りに地子(宅地年貢)は免除されるものの、継立に要する人馬を常に用意しておかねばならぬ等、その費用負担は町にとって大きなものでした。
特に本町や田町と異なり、旅籠屋が主で巨商・豪商という店が少ない新町にとって、その負担の重さは年々嵩む一方で、もう耐えきれないところまで来ていました。
そこへ追い討ちをかけたのが、文久二年(1862)正月二十七日に本町から発生した火災です。
後に「百足屋火事」と称されたこの火災は折からの北風に煽られ、城下の7割が焼失する大火となり、新町も類焼の憂き目に遭ってしまいます。
新町では町内一同が協議し、当時高崎城下では禁じられていた「相撲、旅芝居、見世物の興業」と「旅籠に飯盛女を置くこと」の許可を高崎藩に求め、その利益を以て町の復興と伝馬業務の継続を図ろうとします。
しかし、その請願は受け入れられず、いよいよ切迫した町民惣代はついに箱訴を以て幕府へ直訴に及んだのです。
これによっても請願の実現を見ることはなく、それどころか町内の主だった者14名が入牢あるいは手錠腰縄で他町預けとなる始末でした。
ますます困窮を極めた新町に、さらなる困難が舞い込みます。
元治元年(1864)水戸天狗党を追討するため、幕府若年寄の田沼玄蕃らが高崎に宿泊することとなり、その費用300両を、あろうことか高崎藩は伝馬を務める町に負担させようとしたのです。
慶応二年(1866)もうこれ以上伝馬業務を続けることは出来ない、請願内容が取り上げられないのであれば厳罰を覚悟して御役御免を願い出ようと、悲壮な決断をするまでに追い詰められます。
この事態をこのまま傍観するには忍びないと動いたのが、寄合町の中島伊兵衛と連雀町の関根作右衛門でした。
両氏は各町の有志と図り、問屋場入費助合として月30両、伝馬永続助成として500両を藩の御納戸へ上金し、その利息として年50両を新町へ下付されるように取り計らいました。
このおかげで、新町は辛うじて最悪の事態を回避できましたが、騒動を起こした罪によりまたもや首謀者2名が居町払い、79名が過料を申し付けられます。
この中には、問屋年寄・矢島八郎右衛門も入っていましたが、心労が重なったものか騒動の最中に病死しています。
その子・矢島八郎はその時14歳でしたが、断食をして父の死を嘆き悲しむその姿を見て、感動しない者はなかったといいます。
八郎は、八郎右衛門を襲名して問屋年寄見習となり、明治と変わってからは戸長となって町政に携わるようになります。
明治六年(1873)には、運輸業「中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社」を設立して高崎-東京間に郵便馬車を走らせるなどの事業を興しますが、心はいつも苦しかった新町の発展を願っていたに違いありません。
明治十四年(1881)に設立された日本鉄道会社により、上野-前橋間に鉄道が敷設されることを知った八郎は、逸早く「高崎停車場」の新町誘致に動きます。
高崎各町からの誘致話もあったであろう中、八郎は高崎中の人々の同意を得て、新町に「高崎停車場」を誘致することに成功したのです。
停車場建設用地は矢島八郎が寄附し、中山道へのアクセス道路となる土地は町の有志が寄附し、停車場の建物は高崎町民の寄付により建設されました。
そこには、「御伝馬事件」により辛酸を嘗めてきた新町への厚い温情があったのです。
後にそのことについて、八郎自身が「御伝馬事件の概要」の中でこう述懐しています。
「 | 日本鉄道会社の高崎停車場位置を撰擇せらるゝや、新町の住民は勿論、高崎在住の官公吏及び有志者は、停車場位置を新町接近地に、其入口道路を新町に設くるを適当なりとし、何れも居町或は情実と云ふ観念を忘れ全駅(全高崎)は公費を投じ、有志諸氏は寄附を為す等、その歩調を一にして運動尽力せられたるは、従来新町住民が御伝馬継立の為に苦心奮斗したる為なりと云ふべきも、当時の在高官吏公吏有志者が公誼に篤く且高崎を一団視したる公平無私の態度は大に称揚すべき異徳と云ふべきなり。 |
不肖八郎は此御伝馬事件関係者の相続者のみならず、其後半に関係を有するを以て、諸氏の祖先、或は其専従者とが御伝馬継立の為に一身を犠牲に供したる芳志に対し謝恩の法会を修し、在天の霊魂を弔慰するに臨み、聊か其の事件の梗概を叙し併せて追悼記念の為め御伝馬事件の碑を建設す。 |
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此事件を忘れたる者或は此事件を知らざる者に対し、諸氏の祖先或は其先住者が、自町愛護の念慮が如何に旺盛なりしかを知らしめ、諸氏が其祖先或は先住者の恩義を忘却せざらん事を望む、敢て一言し以て告ぐ。」 |
また、新町の危機を救った中島伊兵衛、関根作右衛門両氏等についても、このように述懐しております。
「 | この両氏の厚意に対し町内の者も皆決心(御役御免の請願)を翻し、御伝馬継立等出精相勤まる事に相成りたり。 |
両氏等の厚意に対しては新町住民たる者銘肝して長く忘却すべからざる事なり。」 |
この「御伝馬事件」がなかったら、また高崎中の人が新町の窮状に対する温情を持つことがなかったら、「高崎駅」は今の場所にはなかったかも知れません。
あの町外れに造った「高崎停車場」の周辺は、今や高崎市の中心市街地へと変貌しました。
反面、新町の窮状に同情して誘致を禅譲したかつての中心市街地は、シャッター通りへと変貌しています。
さて、もしも矢島八郎があの世から蘇ったとしたならば、今の高崎に何を思い、何を為すのでありましょうか。
長い話を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
(参考図書:「文久慶応年間 高崎御傳馬事件」)
【御伝馬事件之碑】