「御幸新道って?」の中で、明治十一年(1878)に明治天皇が高崎に行幸されたと書きましたが、実は明治十七年(1884)にもご来高されています。
明治十七年といえば、上野-高崎間の鉄道が開通した年です。
その開通式にご臨席される明治天皇にご休憩頂くため、行在所(あんざいしょ)が、本町三丁目北部に新築されました。
ちょうど写真の正面、「公会堂」がある辺りだったようです。
瓦葺き木造二階建ての本館は、天井に金箔を散りばめた豪華な造りだったといいます。
また、随員用に別棟2棟も建設されました。
財政豊かとはいえない高崎市にとって、これだけの行在所を建築するのは、大変なことだったでしょう。
この行在所は、「養氣館」と名付けられました。
開通式の五月一日を前に、宮内大輔(くないたいふ)の杉孫七郎が事前点検のために来高します。
当時、ここから北は一面の田園が広がり、遠く榛名山から赤城山にかけて春霞がたなびくという、素晴らしい風景が展開していたようです。
その風景に感動した杉孫七郎は、自ら、この行在所を「春靄館(しゅんあいかん)」と命名し直し、揮毫までしたといわれています。
さて、準備万端整った五月一日の開通式ですが、「開通式に出席する政府高官を襲撃しようとする不穏な動きあり。」という情報により、突如延期されます。
事実、その直後の五月十五日には、いわゆる「群馬事件」が起きています。
その後、開通式は大幅に延期されて六月二十五日に行われます。
しかし、不測の事態を恐れ、明治天皇はじめ随員の伊藤博文らは、高崎駅構内から一歩も出ることなく、滞在三時間で帰京してしまいます。
ついに、「春靄館」は行在所として使われることはありませんでした。
その後の「春靄館」は、役所の会議、婦人教育会など、公共の集会所として利用されます。
そして、明治二十七年(1894)、高崎米穀取引所に賃貸されたことを皮切りに、「春靄館」のさすらいが始まります。
明治三十二年(1899)、群馬県高等女学校の仮校舎となりますが、翌年、隣接地に新校舎が完成すると、移転していってしまいます。
明治三十年代後半には、維持運営が困難となり、売却も検討されています。
「春靄館」が息を吹き返すのは、明治四十二年(1909)のことです。
市教育会と、青年実業家団体の「同気茶話会」が中心となり、青少年の社会教育を目的に、図書館を設立しようという動きが湧きおこります。
中心となって活躍したのは、27歳の銀行員・山田昌吉をはじめ、意気盛んな少壮実業家達でした。
必要な図書は、個人および団体の寄付と購入によって集められました。
市も、厳しい財政状態ではありましたが、「春靄館」を永久無償貸与することでこれを応援します。
そうして、明治四十三年(1910)、高崎市最初の図書館が私立として創立されることになります。
大正六年(1917)、再び「春靄館」に変化が訪れます。
「公会堂」を建設するために、「春靄館」は西方に移動され、別棟は取り壊されてしまいます。
創立以来、有志者からの寄付金で運営されてきた私立図書館ですが、大正八年(1919)ついに限界を迎えます。
施設・蔵書一切を市に寄付し、私立図書館から市立図書館になる訳です。
時代は更に下って昭和九年(1934)、「春靄館」の建物は老朽化が進んだということで、ついに解体されてしまいます。
しかし、ここからが昔の人の偉いところです。
昭和十二年(1937)、高崎公園内に新築された「武徳殿」には、「春靄館」の用材が再利用されたそうです。
一方、「春靄館」取り壊し後の新図書館は、昭和十年(1935)成田町に完成しますが、昭和十九年(1944)になって、疎開してきた東京鉱山監督局の庁舎に転用されてしまいます。
そこで図書館業務は、「春靄館」の用材で建てられた高崎公園内の「武徳殿」で、昭和二十三年(1948)まで行うことになります。
奇しき因縁とでもいうべき出来事ですね。
因みに、新図書館の建物は、現在「たかさき女性フォーラム」として現存していますが、今、解体のうわさも出ているようです。
「女性フォーラムも解体か (高崎新聞)」
「男女共同参画推進条例」を制定した高崎市としては、そのシンボルとしても残すべき建物だと思うのですが。
「武徳殿」はその後、改装されて「高崎市体育館」という味気ない名前に変わり、剣道・柔道・拳闘・重量挙げの施設として利用されます。
しかし、昭和三十八年(1963)、栄町に新しい市立体育館が建設されると、「武徳殿」は解体されてしまいます。
さしもの「春靄館」の建物も、もはやこれまでかと思いきや、どっこいまだ生き延びます。
昭和三十九年(1964)、高崎経済大学の体育館として移設されるのです。
しかし、ここまででした。
昭和五十五年(1980)に、大学に新体育館が建設されると、ついに、ついに、「春靄館」はその姿を永遠に消してしまいます。
明治・大正・昭和にわたって96年間、実に数奇な運命で、さすらい続けた「春靄館」。
願わくば、高崎のどこかの地に残っていて欲しかったと思います。
「春靄館」という教養に満ちた命名や、建物を市民のためにとことん使い続けた先人たちの心を思うにつけ、使い捨ての風潮が始まる昭和年代後半という時代を、実に残念に思うのであります。
明治十七年といえば、上野-高崎間の鉄道が開通した年です。
その開通式にご臨席される明治天皇にご休憩頂くため、行在所(あんざいしょ)が、本町三丁目北部に新築されました。
ちょうど写真の正面、「公会堂」がある辺りだったようです。
瓦葺き木造二階建ての本館は、天井に金箔を散りばめた豪華な造りだったといいます。
また、随員用に別棟2棟も建設されました。
財政豊かとはいえない高崎市にとって、これだけの行在所を建築するのは、大変なことだったでしょう。
この行在所は、「養氣館」と名付けられました。
開通式の五月一日を前に、宮内大輔(くないたいふ)の杉孫七郎が事前点検のために来高します。
当時、ここから北は一面の田園が広がり、遠く榛名山から赤城山にかけて春霞がたなびくという、素晴らしい風景が展開していたようです。
その風景に感動した杉孫七郎は、自ら、この行在所を「春靄館(しゅんあいかん)」と命名し直し、揮毫までしたといわれています。
(写真は「やまとふぁーむ にいじま」さんに、ご提供頂きました。)
さて、準備万端整った五月一日の開通式ですが、「開通式に出席する政府高官を襲撃しようとする不穏な動きあり。」という情報により、突如延期されます。
事実、その直後の五月十五日には、いわゆる「群馬事件」が起きています。
その後、開通式は大幅に延期されて六月二十五日に行われます。
しかし、不測の事態を恐れ、明治天皇はじめ随員の伊藤博文らは、高崎駅構内から一歩も出ることなく、滞在三時間で帰京してしまいます。
ついに、「春靄館」は行在所として使われることはありませんでした。
その後の「春靄館」は、役所の会議、婦人教育会など、公共の集会所として利用されます。
そして、明治二十七年(1894)、高崎米穀取引所に賃貸されたことを皮切りに、「春靄館」のさすらいが始まります。
明治三十二年(1899)、群馬県高等女学校の仮校舎となりますが、翌年、隣接地に新校舎が完成すると、移転していってしまいます。
明治三十年代後半には、維持運営が困難となり、売却も検討されています。
「春靄館」が息を吹き返すのは、明治四十二年(1909)のことです。
市教育会と、青年実業家団体の「同気茶話会」が中心となり、青少年の社会教育を目的に、図書館を設立しようという動きが湧きおこります。
中心となって活躍したのは、27歳の銀行員・山田昌吉をはじめ、意気盛んな少壮実業家達でした。
必要な図書は、個人および団体の寄付と購入によって集められました。
市も、厳しい財政状態ではありましたが、「春靄館」を永久無償貸与することでこれを応援します。
そうして、明治四十三年(1910)、高崎市最初の図書館が私立として創立されることになります。
大正六年(1917)、再び「春靄館」に変化が訪れます。
「公会堂」を建設するために、「春靄館」は西方に移動され、別棟は取り壊されてしまいます。
創立以来、有志者からの寄付金で運営されてきた私立図書館ですが、大正八年(1919)ついに限界を迎えます。
施設・蔵書一切を市に寄付し、私立図書館から市立図書館になる訳です。
時代は更に下って昭和九年(1934)、「春靄館」の建物は老朽化が進んだということで、ついに解体されてしまいます。
しかし、ここからが昔の人の偉いところです。
昭和十二年(1937)、高崎公園内に新築された「武徳殿」には、「春靄館」の用材が再利用されたそうです。
一方、「春靄館」取り壊し後の新図書館は、昭和十年(1935)成田町に完成しますが、昭和十九年(1944)になって、疎開してきた東京鉱山監督局の庁舎に転用されてしまいます。
そこで図書館業務は、「春靄館」の用材で建てられた高崎公園内の「武徳殿」で、昭和二十三年(1948)まで行うことになります。
奇しき因縁とでもいうべき出来事ですね。
因みに、新図書館の建物は、現在「たかさき女性フォーラム」として現存していますが、今、解体のうわさも出ているようです。
「女性フォーラムも解体か (高崎新聞)」
「男女共同参画推進条例」を制定した高崎市としては、そのシンボルとしても残すべき建物だと思うのですが。
「武徳殿」はその後、改装されて「高崎市体育館」という味気ない名前に変わり、剣道・柔道・拳闘・重量挙げの施設として利用されます。
しかし、昭和三十八年(1963)、栄町に新しい市立体育館が建設されると、「武徳殿」は解体されてしまいます。
さしもの「春靄館」の建物も、もはやこれまでかと思いきや、どっこいまだ生き延びます。
昭和三十九年(1964)、高崎経済大学の体育館として移設されるのです。
しかし、ここまででした。
昭和五十五年(1980)に、大学に新体育館が建設されると、ついに、ついに、「春靄館」はその姿を永遠に消してしまいます。
明治・大正・昭和にわたって96年間、実に数奇な運命で、さすらい続けた「春靄館」。
願わくば、高崎のどこかの地に残っていて欲しかったと思います。
「春靄館」という教養に満ちた命名や、建物を市民のためにとことん使い続けた先人たちの心を思うにつけ、使い捨ての風潮が始まる昭和年代後半という時代を、実に残念に思うのであります。
(参考図書:「新編 高崎市史」「開化高崎扣帖」「高崎の散歩道 第五集」)