「おしあわせ・しんどう」ではありません。
「みゆき・しんどう」って読みます。
何だか、幸せ一杯になりそうな道の名前ですよね。
「御幸」は「行幸」とも書きます。
天皇が外出することだそうですが、視察を兼ねた旅行ということでもあるんでしょうか。
高崎の「御幸新道」は、明治十一年(1878)に明治天皇が東北御巡幸の途中、高崎と前橋に立ち寄られるということで、整備された道路だそうです。
「御幸新道」により高崎から前橋へ行くには、「実政街道」の「赤土橋」を渡った後、塚沢の分去りを左に進み、明治初期に整備された「前橋新道」に入ることになります。
「高崎の散歩道 第五集」には、明治十一年の明治天皇行幸について、こんな記述があります。
「初めて上州へ行幸される明治天皇を一目拝もうと、近郷近在は言うに及ばず、五里、十里の道を歩いて山を下りてきた人々もいた。
ゴザを背負い、握り飯をたずさえて、前日までに到着した人々がこの御幸新道沿いに集まり、よい場所に陣取って野宿して待ったという。」
後に「国道九号線」となる、本町三丁目からの「前橋新道」が整備されるのは、明治二十四年(1891)頃のことです。
地図上に「高崎高等女学校」とあるのは、明治三十二年(1899)開校の現「県立高崎女子高等学校」ですが、昭和五十七年(1982)稲荷町に移転した跡には、ご存知、市立図書館や文化会館などが設置されました。
この地図には、まだ末広町の六本辻交差点はありません。
それどころか、末広町という町すらまだなく、赤坂村の一部でした。
末広町が新しい町として制定されたのは、明治三十五年(1902)です。
新しい道ができることによって、その沿線が発展するという構図は、今も昔も変わらないようです。
ついでに言えば、中曽根康弘元首相の生家、中曽根木材がこの地に設立されたのは、大正十一年(1922)だそうです。
昭和初期に撮影された、本町三丁目付近の写真が残されています。
九蔵町側から末広町方向を見た所です。
手前には、高崎-渋川間を走っていたチンチン電車の軌道が見えます。
正面の洋館は、大正七年(1918)に落成した「公会堂」です。
講演会や音楽会、展示会、各種団体の集会など、多数の市民が集会できる公共施設として建設要望の声があった公会堂ですが、当時の市財政は大変逼迫していたようです。
そこで、市民から広く寄付金を募り、建築費のほとんどを浄財で賄ったといいます。
市民の強い郷土愛と、信頼される行政の姿を感じさせる、いい話ではありませんか。
昭和二十二年(1947)には、宮元町にあった市役所が火災で焼失したため、公会堂を一時期、市仮庁舎として使ったのですが、あろうことか、昭和二十五年(1950)に、ここでも火災を発生させ、二階部分を焼失してしまいます。
よっぽど、市の財政が「火の車」だったんでしょうね。
現在の本町三丁目付近を、同じ位置から撮影してみました。
私が懐古趣味だからなのでしょうか。
昔の街並みの方が、何となく「味がある」と感じるのですが・・・。
ツリーハウスをつくるワークショップに参加したことがあるのですが、その時のビルダーが言っていた言葉を思い出します。
「自然界には直線というものはない。
自然と一体になるツリーハウスは、できるだけ直線部分をつくらないようにするべきだ。」
日本人が木の家に安らぎを感じるのは、木目がピシッとした幾何学模様でなく、適当な「曖昧さ」「でたらめさ」があるためだとも聞いたことがあります。
「不合理が持つ合理性」とでもいうのでしょうか。
面白いですね。
「みゆき・しんどう」って読みます。
何だか、幸せ一杯になりそうな道の名前ですよね。
「御幸」は「行幸」とも書きます。
天皇が外出することだそうですが、視察を兼ねた旅行ということでもあるんでしょうか。
高崎の「御幸新道」は、明治十一年(1878)に明治天皇が東北御巡幸の途中、高崎と前橋に立ち寄られるということで、整備された道路だそうです。
「御幸新道」により高崎から前橋へ行くには、「実政街道」の「赤土橋」を渡った後、塚沢の分去りを左に進み、明治初期に整備された「前橋新道」に入ることになります。
「高崎の散歩道 第五集」には、明治十一年の明治天皇行幸について、こんな記述があります。
「初めて上州へ行幸される明治天皇を一目拝もうと、近郷近在は言うに及ばず、五里、十里の道を歩いて山を下りてきた人々もいた。
ゴザを背負い、握り飯をたずさえて、前日までに到着した人々がこの御幸新道沿いに集まり、よい場所に陣取って野宿して待ったという。」
後に「国道九号線」となる、本町三丁目からの「前橋新道」が整備されるのは、明治二十四年(1891)頃のことです。
地図上に「高崎高等女学校」とあるのは、明治三十二年(1899)開校の現「県立高崎女子高等学校」ですが、昭和五十七年(1982)稲荷町に移転した跡には、ご存知、市立図書館や文化会館などが設置されました。
この地図には、まだ末広町の六本辻交差点はありません。
それどころか、末広町という町すらまだなく、赤坂村の一部でした。
末広町が新しい町として制定されたのは、明治三十五年(1902)です。
新しい道ができることによって、その沿線が発展するという構図は、今も昔も変わらないようです。
ついでに言えば、中曽根康弘元首相の生家、中曽根木材がこの地に設立されたのは、大正十一年(1922)だそうです。
昭和初期に撮影された、本町三丁目付近の写真が残されています。
(「高崎百年」より)
九蔵町側から末広町方向を見た所です。
手前には、高崎-渋川間を走っていたチンチン電車の軌道が見えます。
正面の洋館は、大正七年(1918)に落成した「公会堂」です。
講演会や音楽会、展示会、各種団体の集会など、多数の市民が集会できる公共施設として建設要望の声があった公会堂ですが、当時の市財政は大変逼迫していたようです。
そこで、市民から広く寄付金を募り、建築費のほとんどを浄財で賄ったといいます。
市民の強い郷土愛と、信頼される行政の姿を感じさせる、いい話ではありませんか。
昭和二十二年(1947)には、宮元町にあった市役所が火災で焼失したため、公会堂を一時期、市仮庁舎として使ったのですが、あろうことか、昭和二十五年(1950)に、ここでも火災を発生させ、二階部分を焼失してしまいます。
よっぽど、市の財政が「火の車」だったんでしょうね。
現在の本町三丁目付近を、同じ位置から撮影してみました。
私が懐古趣味だからなのでしょうか。
昔の街並みの方が、何となく「味がある」と感じるのですが・・・。
ツリーハウスをつくるワークショップに参加したことがあるのですが、その時のビルダーが言っていた言葉を思い出します。
「自然界には直線というものはない。
自然と一体になるツリーハウスは、できるだけ直線部分をつくらないようにするべきだ。」
日本人が木の家に安らぎを感じるのは、木目がピシッとした幾何学模様でなく、適当な「曖昧さ」「でたらめさ」があるためだとも聞いたことがあります。
「不合理が持つ合理性」とでもいうのでしょうか。
面白いですね。