
オーナーの名前が左近さん、・・・という訳ではありません。
この辺の小字名を「左近」と言っていたのだそうです。
飯塚には、この小字名に関する悲しい話が伝えられています。
徳川時代も終わりに近い、十二代将軍・家慶(いえよし)の頃だそうです。
常陸国笠間城主・牧野越後守には跡目の男子がなく、生まれた女子を男子と偽って幕府に届け出ます。
男子として育てられる姫の遊び友達として近習を仰せつかったのが、藩士・島崎正就の嫡男で左近という若者でした。
表向きは若殿と近習の関係ですが、しかし、そこはやはり女と男。
長じるに従い、二人はやがて恋仲になっていき、重臣たちもそれとなく気がつき始めます。
一方、時の将軍・家慶には54人もの子どもがあり、それを各地の大名に嫁や養子として押し付けていたようです。
ある日、牧野家にも、将軍家の姫を嫁がせたいとの話が持ち上がります。
それを聞いた笠間藩は、大慌てに慌てます。
女子を男子と偽り、しかも近習と恋仲になっていることが幕府に知れては、お家断絶の一大事。
そこで重臣たちは相談の上、二人を笠間から密かに逐電させ、将軍家には病死したと届けることにしたのです。
しかも、後々明るみに出ることを恐れ、これまた密かに二人の後を刺客に追わせ、闇に葬り去ろうと謀ります。
ついに刺客に追い付かれ、左近が命を落としたのが、飯塚のこの地でした。
村人は、左近の亡骸を、この辺りにあった塚に葬ったそうです。
それから暫くして、左近の縁者だという武士が訪ねて来て、塚に卒塔婆を建てて供養したといいます。
そこで初めて、村人は島崎左近の名を知ったのではないでしょうか。
この塚を「左近塚」と呼んだそうですが、小字名もこの塚があったことによるのでしょうか。
ここまで読んできた方から、「姫はどうしたんだ、姫は!」という声が聞こえてきそうですね。
実は、ここから西北へ800mほど行った三国街道のすぐ脇、今の「ウエハラゴルフ練習場」の近くに、「花魁(おいらん)地蔵」と呼ばれるお地蔵様が建っていたそうです。
言い伝えでは、ここに男女の亡骸があって、女の着ている物が、この辺では見たこともない煌びやかなものだったので、村人はてっきり、この女は花魁で、若侍と心中したのだろうと思ったとあります。
そこで、供養のためにお地蔵様を建て、「花魁地蔵」と名付けたというのです。
でも、私はちょっと疑問に思うのです。
それなら二人一緒の場所に葬ってもよさそうなものですし、「花魁地蔵」一体だけというのも妙です。
思うに、二人は別々の場所で亡くなっていたのではないでしょうか。
左近は一命を賭して姫を逃がそうとしたのではないかと思うのです。
そして、左近は「左近塚」付近で凶刃に倒れ、姫は「ゴルフ練習場」近くまで逃げてきたものの、追いつかれて殺害されたとすれば、筋が通ります。

「左近塚」は、もう跡形もなくなってしまったようです。
ところが、「左近」はお地蔵さまになって、実は今も残っているのです。
そのお話は、また次回のお楽しみ。
《補足》
笠間藩牧野家には、備後守、越中守はいますが、越後守を任じられた人はいません。
史実と飯塚村の言い伝えは、どうも一致しないようです。
ただ、牧野家の跡目相続はいろいろと問題もあったようで、第六代藩主・牧野貞勝は養子になって藩主になったものの、翌年、18歳という若さで他界してしまいます。
それを藩では、21歳で他界したと幕府に虚偽の報告を行ったうえで、また養子に家督を継がせるなどしています。(Wikipediaより)
それはちょうど、十二代将軍・徳川家慶と時代も一致します。
「姫と左近の悲恋物語」は、そんな噂をする旅人達の話に、村人達が尾ひれをつけて産まれたものかもしれません。
でも、例え作り話であったとしても、お地蔵さまに手を合わせる気持ちは、大切にしたいものだと思います。
(参考図書:「徐徐漂たかさき」「高崎の散歩道 第六集」「高崎漫歩」)
【左近ビル】
【ウエハラゴルフ練習場】
【花魁地蔵】