高砂町には、二つの史跡看板が建てられました。
ひとつは、「庚申塔と道祖神」。
看板にあるように、ここは高崎の城下町を囲む遠構えに設けられた七口のひとつ、「江木新田口」でした。
なので、看板は「江木新田口の道祖神」とでもしてほしかったところです。
「江木新田」は、宝永六年(1709)に江木村の新田として分村された地区だそうです。
天明三年(1783)の浅間山大噴火で、「江木新田」も軽石や降灰に覆われました。
大雲寺持ちとなっていた土地は堆積物を土中に埋め、その上に家を建てるようにしました。
そして明治五年(1872)、その大雲寺持ちの土地と「江木新田」とを合わせてできたのが、現在の「高砂町」だということです。
看板にある「高砂町五本辻」がここです。
「ワタナベ薬局」と「大栄高崎卸売青果市場」の間の細い道が、「大類里道」。
「青果市場」の前を斜め向こうに行く道が昔の「実政(さねまさ)街道」、前橋の「実政の渡し」へ至る道です。
その「実政街道」を130mほど行くと、長野堰に架かる「高砂橋」です。
長野堰改修によって、雰囲気のよい川辺の遊歩道が整備されています。
右側のビルが建っている場所には、かつて「川原友禅染工場」があり、熱海にあるブルーノタウト設計の「日向家別邸」に使われた壁布は、ここで染められました。→「長野堰とブルーノ・タウト」
そして「川原友禅染工場」が染物を洗っていた長野堰の対岸では、「岩田屋水車」と呼ばれる大きな水車が回り、米を搗いていました。
写真は大正三年(1914)の三代目の水車だそうですが、昭和十九年(1944)に金属供出で失ってしまいます。
その後しばらくは、車軸台だけが残っていましたが、今はそれもありません。
「高砂橋」から50mほど先に、二つ目の史跡看板があるのですが、それは次回ということに。
ひとつは、「庚申塔と道祖神」。
看板にあるように、ここは高崎の城下町を囲む遠構えに設けられた七口のひとつ、「江木新田口」でした。
なので、看板は「江木新田口の道祖神」とでもしてほしかったところです。
「江木新田」は、宝永六年(1709)に江木村の新田として分村された地区だそうです。
(関戸明子・奥戸井尚氏著「高崎城下町の形成過程と地域構成」)
天明三年(1783)の浅間山大噴火で、「江木新田」も軽石や降灰に覆われました。
大雲寺持ちとなっていた土地は堆積物を土中に埋め、その上に家を建てるようにしました。
そして明治五年(1872)、その大雲寺持ちの土地と「江木新田」とを合わせてできたのが、現在の「高砂町」だということです。
(田島桂男氏著「高崎の地名」)
看板にある「高砂町五本辻」がここです。
「ワタナベ薬局」と「大栄高崎卸売青果市場」の間の細い道が、「大類里道」。
「青果市場」の前を斜め向こうに行く道が昔の「実政(さねまさ)街道」、前橋の「実政の渡し」へ至る道です。
その「実政街道」を130mほど行くと、長野堰に架かる「高砂橋」です。
長野堰改修によって、雰囲気のよい川辺の遊歩道が整備されています。
右側のビルが建っている場所には、かつて「川原友禅染工場」があり、熱海にあるブルーノタウト設計の「日向家別邸」に使われた壁布は、ここで染められました。→「長野堰とブルーノ・タウト」
そして「川原友禅染工場」が染物を洗っていた長野堰の対岸では、「岩田屋水車」と呼ばれる大きな水車が回り、米を搗いていました。
写真は大正三年(1914)の三代目の水車だそうですが、昭和十九年(1944)に金属供出で失ってしまいます。
その後しばらくは、車軸台だけが残っていましたが、今はそれもありません。
「高砂橋」から50mほど先に、二つ目の史跡看板があるのですが、それは次回ということに。