高崎市民には、ブルーノ・タウトというと少林山との関係が広く知られていますが、「長野堰」とも大きなつながりがあったということは、あまり知られてないようです。
実は今回、「ありがとう長野堰用水路・高崎の歴史を語る絵図史展」のお手伝いをしている中で知った、凄い事実があるんです。
ブルーノ・タウトは、昭和八年(1933)53歳の時にナチス政権下のドイツを脱出して日本にやって来ます。
少林山の洗心亭に住んだのは昭和九年(1934)からで、昭和十一年(1936)には日本を離れてトルコへ旅立ち、その2年後の昭和十三年(1938)に58年という短い生涯を終えています。
タウトは高崎にいた2年余り、「長野堰」沿いの「群馬県工業試験場高崎分場」(後に「群馬県工芸所」となる)の顧問を務めています。
ここでは、高崎でのタウトの生活を面倒見ていた井上房一郎が、木工や家具、繊維など高崎の工芸品について指導をしていました。
タウトは房一郎の工芸運動の理想とやり方に共鳴し、工芸の産業化のために持てる知識と技能をここで発揮しました。
昭和十年(1935)房一郎は、銀座に「ミラテス」という工芸品の店を開きます。
タウトのデザインによる、竹、和紙、漆器など日本の素材を活かしたモダンな作品が並ぶ「ミラテス」でしたが、そこに展示されていた行燈に魅了されたひとりの実業家がいました。
海外貿易で財を成し、美術・建築にも造詣の深かった日向利兵衛(ひゅうが・りへえ)です。
利兵衛は、その行燈をデザインしたタウトに、熱海にある日向家別邸の離れの設計を依頼します。
いま国指定重要文化財になっている、「旧日向家熱海別邸」の地下室がそれです。
地下室とはいうものの、海側に開いた大きな窓からの光と空気を充分に取り入れた設計で、中に居るとまったく地下であることを感じさせません。
設計を依頼するにあたり、利兵衛は①資金制限なし、②期間制限なし、③施主の口出しなし、という「三無し」で全てをタウトに任せたということで、デザインはもちろん大工や材料に至るまで、選びに選び抜かれた第一級のものが使用されています。
さて、この「日向家別邸」と「長野堰」の関係です。
地下室には、「社交室」「洋風客間」「和風客間」の三室が配置されていますが、左の写真は「洋風客間」です。
この部屋の壁には、ワインレッドに染められた絹の布が貼られています。
この布を染めたのが、わが高崎の「長野堰」沿いにあった「川原友禅染工場」なんです。
タウトと「川原友禅染工場」を結びつけたのは、「高崎の知の巨人」と言われた水原徳言(みはら・とくげん)でした。
タウトは日本での唯一の弟子であった徳言に、「日向家別邸」で用いる様々な建築材の調達を命じたようで、壁布もその一つでした。
しかし染められた色はなかなかタウトのイメージと合わず、何度も何度も染め直しをさせられて、最終的にはドイツから取り寄せた染料を使って9回目でやっとOKが出たということです。
タウトの設計した地下室が完成したのは昭和十一年(1936)でした。
それから79年の月日が経った現在、壁に貼られた絹の布は多少の色褪せや傷みもありますが、その品格は少しも損なわれていません。
高崎の方々には、ぜひ訪れて頂きたい建物です。
在りし日の「川原友禅染工場」の姿を、昭和二十六年(1951)制作の映画「高崎での話」から抜き出しました。↓
「高崎での話」全編をご覧になりたい方は、
このようなすごい役割を果たした「長野堰」について知る、「ありがとう長野堰用水路・高崎の歴史を語る絵図史展」が、来たる4月3日~7日、高崎シティギャラリーで開かれます。
みなさま、ぜひ足をお運びください。
実は今回、「ありがとう長野堰用水路・高崎の歴史を語る絵図史展」のお手伝いをしている中で知った、凄い事実があるんです。
ブルーノ・タウトは、昭和八年(1933)53歳の時にナチス政権下のドイツを脱出して日本にやって来ます。
少林山の洗心亭に住んだのは昭和九年(1934)からで、昭和十一年(1936)には日本を離れてトルコへ旅立ち、その2年後の昭和十三年(1938)に58年という短い生涯を終えています。
タウトは高崎にいた2年余り、「長野堰」沿いの「群馬県工業試験場高崎分場」(後に「群馬県工芸所」となる)の顧問を務めています。
ここでは、高崎でのタウトの生活を面倒見ていた井上房一郎が、木工や家具、繊維など高崎の工芸品について指導をしていました。
タウトは房一郎の工芸運動の理想とやり方に共鳴し、工芸の産業化のために持てる知識と技能をここで発揮しました。
昭和十年(1935)房一郎は、銀座に「ミラテス」という工芸品の店を開きます。
タウトのデザインによる、竹、和紙、漆器など日本の素材を活かしたモダンな作品が並ぶ「ミラテス」でしたが、そこに展示されていた行燈に魅了されたひとりの実業家がいました。
海外貿易で財を成し、美術・建築にも造詣の深かった日向利兵衛(ひゅうが・りへえ)です。
利兵衛は、その行燈をデザインしたタウトに、熱海にある日向家別邸の離れの設計を依頼します。
いま国指定重要文化財になっている、「旧日向家熱海別邸」の地下室がそれです。
地下室とはいうものの、海側に開いた大きな窓からの光と空気を充分に取り入れた設計で、中に居るとまったく地下であることを感じさせません。
設計を依頼するにあたり、利兵衛は①資金制限なし、②期間制限なし、③施主の口出しなし、という「三無し」で全てをタウトに任せたということで、デザインはもちろん大工や材料に至るまで、選びに選び抜かれた第一級のものが使用されています。
さて、この「日向家別邸」と「長野堰」の関係です。
地下室には、「社交室」「洋風客間」「和風客間」の三室が配置されていますが、左の写真は「洋風客間」です。
この部屋の壁には、ワインレッドに染められた絹の布が貼られています。
この布を染めたのが、わが高崎の「長野堰」沿いにあった「川原友禅染工場」なんです。
タウトと「川原友禅染工場」を結びつけたのは、「高崎の知の巨人」と言われた水原徳言(みはら・とくげん)でした。
タウトは日本での唯一の弟子であった徳言に、「日向家別邸」で用いる様々な建築材の調達を命じたようで、壁布もその一つでした。
しかし染められた色はなかなかタウトのイメージと合わず、何度も何度も染め直しをさせられて、最終的にはドイツから取り寄せた染料を使って9回目でやっとOKが出たということです。
タウトの設計した地下室が完成したのは昭和十一年(1936)でした。
それから79年の月日が経った現在、壁に貼られた絹の布は多少の色褪せや傷みもありますが、その品格は少しも損なわれていません。
高崎の方々には、ぜひ訪れて頂きたい建物です。
在りし日の「川原友禅染工場」の姿を、昭和二十六年(1951)制作の映画「高崎での話」から抜き出しました。↓
「高崎での話」全編をご覧になりたい方は、
過去記事「紫文ライブ 高崎市民新聞に掲載!」からどうぞ。
このようなすごい役割を果たした「長野堰」について知る、「ありがとう長野堰用水路・高崎の歴史を語る絵図史展」が、来たる4月3日~7日、高崎シティギャラリーで開かれます。
みなさま、ぜひ足をお運びください。
【群馬県工芸所があった場所】
【川原友禅染工場があった場所】