
正面に見えるのが、「仁王門」。
この「仁王門」は、寛文十一年(1671)高崎藩主・安藤対馬守重治(重博)により、本堂改修とともに建造されたものだそうです。

清水寺歴代住職の墓地ですが、観音山山上に簡易水道を敷設した時は、この辺りに中継水槽を設けたということです。

墓石正面には「中僧都仙岳」、裏面には「明治三十貮十二月二十三日遷没(?)享年七十四歳」と刻まれています。
田村仙岳は、「田村堂」を建てて、下仁田戦争戦死者の木造を安置した人物として知られています。
(注:「田村堂」の「田村」は「坂上田村麻呂」から)
しかし、その生い立ちや人となりについてとなると、あまり知られてないように思います。
「新編 高崎市史」にも、ほんの少ししか出てきません。
清水寺の歴史の項に、
「 | 享保二年(1717)七月、清水寺賢隆が遷化しその後は専従の住職は置かれず、本寺大聖護国寺から院代が派遣されて管理していた。 |
弘化五年(嘉永元年/1848)に至ってようやく石原村世話人共の請願が実り、寄合町玉田寺から快音が専任住職となり、嘉永三年(1850)には福島村金剛寺から仙岳が入院した。」 |
もうひとつは、水戸浪士追討のために高崎藩が野州へ出陣する件りの中で、
「 | この時清水寺住職田村仙岳が、武運長久と勝利を祈願した守護札を持参したので、出陣する藩士の士気はいやが上にも高まった。」 |
と、たったこれだけです。
もっと知りたいと思って本を探したのですが、見つかったのはたった一冊、高橋敏氏著「国定忠治を男にした女侠 菊池徳の一生」だけでした。
田村仙岳と全く関係なさそうな題ですが、実は田村仙岳の姉が、国定忠治の妾と言われる菊池徳という人なのです。
この本によると、徳と仙岳は九つ違いの姉弟で、生家は有馬村(渋川市)の農間煮売渡世(農業の傍ら茶屋を営む)・一倉家だそうです。
父・佐兵衛は国分村(高崎市)住谷家の次男で、一倉家の長女の入り婿となり長男をもうけたが妻に先立たれ、中里村(高崎市)の岸家から迎えた後妻との間にできた長女と次男が、徳と仙岳(本名不明)だということです。
徳は二十五歳で五目牛村(伊勢崎市)の菊池千代松に嫁し、仙岳はいくつの時か分かりませんが中里村の徳蔵寺へ出家修行と、いずれも一倉家を離れています。
田村仙岳について、この本から少し抜き書きしてみましょう。
「 | ところで、仙岳は、何故に出家し、姓が生家の「一倉」ではなくして「田村」なのか。謎を解く手がかりは目下ない。 ただ推測を逞しくすれば、徳がそうであったように、母親の生家の影響が垣間見える。 というのは、仙岳の宗派は、有馬村一倉家の菩提寺神宮寺の天台宗ではなく、中里村の母の生家岸家の檀那寺徳蔵寺の真言宗なのである。 |
おそらく後妻の男子であった仙岳には、零細な田畑で茶屋を営む父母から分家させてもらうことは考えられない。 | |
通常は、他家の女婿になって百姓になるか、いっそ蚕で潤う商家の奉公人になるかである。 仙岳は、いずれの途も採らなかった。出家して僧侶になる途を選んだのであった。 |
|
いつ、どの寺で得度し、どこで修業し、一人前の僧侶となったのか、仙岳の修業時代はまったく不明である。」 |
ということで、やはり謎の多い人物であります。
その後、仙岳は26歳の若さで高崎清水寺の住職に就く訳ですが、その時期がまた因縁めいています。
「 | 高崎華蔵山弘誓院(けぞうざん・ぐぜいん)清水寺への転住の記事によって、僧仙岳が現われてくるのは、嘉永三年(1850)十二月三十日である。(略) |
その九日前、姉・徳が精魂傾けた国定忠治が大戸で磔刑に処せられていた。」 |
姉の徳が「国定忠治を男にした女侠」と呼ばれたように、弟・仙岳もまた、この後、任侠に富んだ住職として活躍をするようになるのですが、そのお話は、また次回。