今回は九蔵町の正法寺(しょうぼうじ)本堂右奥にある、「九蔵稲荷」です。
「九蔵町」という町名を見て、九つの蔵があったのかと思う方もいるようですが、看板に書かれているように「北爪九蔵」という人物に由来しています。
大坂夏の陣で手柄を立てたと伝わっているのですが、どんな手柄を立てたのかは田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」から、講談調の名調子でお楽しみください。
酒井家次はその功績で五万石から十万石に加増されて越後高田藩主として転封、九蔵も家次に従って高田へ移ります。
屋敷跡に残された稲荷社を、人々はいつか「九蔵稲荷」と呼ぶようになりました。
昭和十年(1935)「九蔵稲荷」が正法寺境内に移される際に発行された「九蔵稲荷再興縁起」に、こう書かれています。
「九蔵稲荷」があった「大黒屋呉服店」と、「正法寺」はここです。
「正法寺」の由緒は、「寛文年中(1661~1672)ヨリ数度ノ類焼ニテ旧記不詳」ということですが、「新編高崎市史資料編14」によると、開山は本龍院日敬、文禄二年(1593)創始とあります。
享保十年(1725)と明治十三年(1880)にも火災に遭い、しばらく木造の仮本堂でしたが、昭和五十年(1975)に現在の本堂が建てられました。
寺紋は「日蓮宗橘」(井筒に橘、井桁に橘)です。
最近テレビで、似たような紋をよく見かけませんか?
頭巾の「井桁」は井伊家の旗じるし、胸の「丸に橘」は井伊家の家紋。
井伊家の初代・共保(ともやす)は「井戸」の傍らで生まれ、そこには「橘」の木が生えていたとかいう話かららしいです。
「日蓮宗橘」は、その井伊家の「井桁」と「橘」がひとつになったような紋です。
それもそのはず、日蓮宗の開祖・日蓮上人は、井伊家から分流した貫名(ぬきな)家四代目・重忠の四男なんだそうです。
井伊直虎が養育し後に徳川四天王の一人となる井伊直政、その井伊直政がつくった城下町高崎、大坂夏の陣で徳川方を勝利に導いた北爪九蔵、井伊家とつながりのある日蓮上人の寺紋を掲げる正法寺、そこにある「九蔵稲荷」。
大河ドラマの舞台となってもおかしくない高崎だと思うのですが、その高崎自身がピクリとも動かないのはなぜ!?
「正法寺」には、もう一つご紹介したいものがあります。
この、ちょっと猫背のお地蔵さま、「夜泣き地蔵」というんだそうです。
過去記事「九蔵町むかし探し」に書いたことがありますので、そちらをご覧ください。
次回は、九蔵町にあったという一里塚跡へ行ってみましょう。
「九蔵町」という町名を見て、九つの蔵があったのかと思う方もいるようですが、看板に書かれているように「北爪九蔵」という人物に由来しています。
大坂夏の陣で手柄を立てたと伝わっているのですが、どんな手柄を立てたのかは田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」から、講談調の名調子でお楽しみください。
「 | 元和元年(1615)大坂夏の陣がおこった。 徳川方の一武将である高崎城主酒井家次は武士の他に高崎城下から四人の町人を選んで従軍させた。 北爪・梶山・須藤・反町の四人、これを高崎城下四人衆という。 酒井の軍は中山道を大阪へ向かったが、北爪一人は酒井家の旗印をふところにして東海道を進んだ。 |
・・・大阪城下は乱戦混戦の修羅場を現じた。 そんな中で北爪はひとり主君に離れて、大阪城中に迷い込んだ。 必死の血戦のなかで、一町人の迷い子を、さして気にかけるものもなく、北爪はいつの間にか城中の一つの矢倉にたどりついてしまった。 |
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高い矢倉から見おろせば、下は敵味方入り乱れての戦闘である。 しばしはわれを忘れてながめていたが、ふと気がついてみると、自分は酒井家の従臣である。ふところには酒井家の旗じるしがある。 そうだ、これだ。そう気がついた北爪はその旗じるしをさっとなびかせて矢倉の窓からひるがえした。 |
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高い矢倉からひるがえった旗は剣かたばみの紋所、まがう方なき酒井家の旗じるしである。 徳川方は、酒井家次が大阪城中一番乗りをしたぞ、あれに続けとばかり勢いづいた。 大坂方は必死に守ったのに、はや敵に乗り込まれたかと、意気阻喪した。 |
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こうして大阪落城のきっかけをつくったのは関東の片田舎、上州高崎の一町人だった。」 |
酒井家次はその功績で五万石から十万石に加増されて越後高田藩主として転封、九蔵も家次に従って高田へ移ります。
屋敷跡に残された稲荷社を、人々はいつか「九蔵稲荷」と呼ぶようになりました。
昭和十年(1935)「九蔵稲荷」が正法寺境内に移される際に発行された「九蔵稲荷再興縁起」に、こう書かれています。
「 | 彼(北爪九蔵)に依りて命名されたるわが九蔵町は、かうして永遠に栄えて行くのであります。 |
しかも九蔵の置き土産は独り町名ばかりでなく、彼が信仰怠らざりし屋敷神であった稲荷の神霊が北爪氏の退転後も九蔵稲荷と呼ばれて、地元の人達から崇敬されて来ました。 | |
それが即ち大黒屋呉服店(二十・二十一番地)裏庭に現存する石宮であります。 | |
然るに此由緒古き九蔵稲荷、謂はばわが町内の産土神とも見るべき九蔵稲荷が年久しく閑却されて、今や荒廃に帰せんとしつつ軈(やが)てその来歴をさへ知る者なきに至るべきを憂ひ、茲に古老に質し旧記に徴して後世の為にこの縁起を作り、併せて祭典復興、町内円満商売繫盛をこの神前に祈る次第であります。」 |
「九蔵稲荷」があった「大黒屋呉服店」と、「正法寺」はここです。
「正法寺」の由緒は、「寛文年中(1661~1672)ヨリ数度ノ類焼ニテ旧記不詳」ということですが、「新編高崎市史資料編14」によると、開山は本龍院日敬、文禄二年(1593)創始とあります。
享保十年(1725)と明治十三年(1880)にも火災に遭い、しばらく木造の仮本堂でしたが、昭和五十年(1975)に現在の本堂が建てられました。
寺紋は「日蓮宗橘」(井筒に橘、井桁に橘)です。
最近テレビで、似たような紋をよく見かけませんか?
頭巾の「井桁」は井伊家の旗じるし、胸の「丸に橘」は井伊家の家紋。
井伊家の初代・共保(ともやす)は「井戸」の傍らで生まれ、そこには「橘」の木が生えていたとかいう話かららしいです。
「日蓮宗橘」は、その井伊家の「井桁」と「橘」がひとつになったような紋です。
それもそのはず、日蓮宗の開祖・日蓮上人は、井伊家から分流した貫名(ぬきな)家四代目・重忠の四男なんだそうです。
井伊直虎が養育し後に徳川四天王の一人となる井伊直政、その井伊直政がつくった城下町高崎、大坂夏の陣で徳川方を勝利に導いた北爪九蔵、井伊家とつながりのある日蓮上人の寺紋を掲げる正法寺、そこにある「九蔵稲荷」。
大河ドラマの舞台となってもおかしくない高崎だと思うのですが、その高崎自身がピクリとも動かないのはなぜ!?
「正法寺」には、もう一つご紹介したいものがあります。
この、ちょっと猫背のお地蔵さま、「夜泣き地蔵」というんだそうです。
過去記事「九蔵町むかし探し」に書いたことがありますので、そちらをご覧ください。
次回は、九蔵町にあったという一里塚跡へ行ってみましょう。
【九蔵稲荷】