
←途中、長野堰で筏に乗ったカモを発見!
一生懸命泳いでいる仲間をよそに、一人まったり休んでいる姿、なんかイイなー。

「たかさき都市景観重要建築物」に指定された貴重な建物です。


町並みの破壊によって、隠れていた昔の姿が出現したとは、何とも皮肉ではありますが。
元、お金貸しの家の蔵だそうです。

大きな看板が不似合いだなぁなんて思いましたが、勝手なことを言っちゃいけませんね。
でも、木の板に「中島醫院」なんて書いてあれば、素敵だなぁ・・・と。

本町三丁目から、まっすぐ椿町に入るのが初期の中山道です。
入ってすぐの右側は、若者に人気の「日本一商会」、その隣はかつての「高崎三名園」のひとつ「暢神荘(ちょうじんそう)」。

そこを、右※に曲がった先に一里塚があったはずです。(※最初、間違えて「左」と記載してしまいました。すみません。)

あれば、この角付近だったはずです。
旅人は、この狭い道をひしめきながら往来し、一里塚の木陰で一休みしてたんでしょうね。

前回の記事で“故郷離れて”さんに教えて頂いた、「だるま紺屋」こと「橋本染工場」の場所は、すっかり空き地になっていました。
一角をちょっとお借りして、「一里塚跡」なんていう石柱でも建てられないものでしょうか。


近くの「正法寺(しょうぼうじ)」にも行ってみました。
境内には「淨行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」の石仏があり、病む所を擦って平癒を願うタワシも備えられています。
グンブロ仲間の弥乃助さんが、「悪いところをゴシゴシと・・・」で紹介していますので、ご覧ください。
私は、頭、口、腹を擦ってきました。
因みに、今の菩薩像は明治三年(1870)に倉賀野の信者が寄進したもので、先代の菩薩像は左の棚上にあります。

記事の中に書かれている「古いお稲荷さん」の発見場所が、「九蔵屋敷」跡と言われる、旧・大黒屋呉服店跡だったということです。
後に「日本生命支社」、現在は「九蔵町ビル」が建っています。

正法寺の境内には、もうひとつ、面白い言い伝えが残っているものがあります。
「九蔵稲荷」のすぐそばに建っている、ちょっと猫背のお地蔵さま。
「夜泣き地蔵」と呼ばれています。
元々は、飯玉公民館近くに正法寺末寺の「妙信庵」というお堂があって、その前に建っていたそうですが、お堂が取り壊されたときに、正法寺に引き取られてきたようです。
言い伝えでは、夜泣きする子を、このお地蔵さまに連れて行って頭を撫でさせたり、子どもの被っているものをお地蔵さまに被せると、ピタッと夜泣きがとまったと言います。
ところが、子どもが帰った後、お地蔵さまはその子どもと同じ声で、かすかに泣いていたのだそうです。
翌朝見ると、お地蔵さまの頬はびっしょり濡れていたのだとか・・・。
上中居の「なきんぞう」といい、石原の「寝観音」といい、昔から子どもの夜泣きは、神仏にお願いするしかなかったのですね。
気がつくと、私のお腹もグーッと泣いていました。
すっかり長くなりました。今日は、この辺で引き上げましょう。
(参考図書:「高崎の散歩道 第五集」「続・徐徐漂たかさき」「九蔵町むかしがたり」)
【正法寺】