聖石橋を渡り、観音山に向かって進むと、「片岡の歴史碑」と書かれた、道祖神のある五本辻に出る。
片岡小学校から真っ直ぐ清水寺の石段へ向かう、いわゆる観音道路ができたのは意外と最近のことで、昭和7年ということだ。
それ以前は、片岡小学校の角を右折して、大きく左折しながら、この道祖神の辻に出てきていたようだ。
その頃、清水寺へ行くには、この辻から「有賀園ゴルフ練習場」の跡地に沿った道を進み、新川に架かる小さな橋を渡ることになる。
今、その橋から右手方向をみると、お堂が見える。
これが、「指出の寝観音」(さしでの・ねかんのん)である。
この「寝観音」は、子どもの夜泣きや、頭痛、不眠症など「寝られない」悩みに大変ご利益があるということで、昔は遠来からの参詣者も多かったそうであるが、今はすっかり忘れられてしまったようだ。
土屋喜英氏著「高崎漫歩」によると、ここの観音様には枕がたくさん奉納してあり、お願いをする人がその枕を借りていき、治った時には新しい枕を付けて返したという。
閉ざされた扉から中を覗き見ると、奥のガラス戸棚の中に、それらしい枕が積まれているのが見える。
ところで、片岡の地域には、指出(さしで)姓を持つ人が多い。
内山信次氏著「新撰高崎三十三観音」によると、大同2年(807年)坂上田村麻呂の命を受けた指出藤太夫という人が、この地に十一面観音を、翌3年(808年)清水寺に千手観音を造立して、この地に土着したのだという。
実はもうひとつ面白い話が伝わっている。
藤太夫の娘姉妹が都から下って来て、姉の姫が「寝観音」に、妹の姫が山に登って「清水の観音」になったのだという。
さらに、別のこんな言い伝えもある。
「指出の観音様」は三人姉妹で、姉と妹がいたという話だ。
そして、妹が清水寺の千手観音、姉は元島名にある福聚堂(ふくじゅどう)の千手観音になったというのだ。
いずれにしても、いかに名前が「寝観音」とはいえ、このまま寝かせておくには実にもったいない「観光資源」である。
しかし、指出家個人の持ち物ということもあるが、この「観音堂」は通りから奥まっていて、ちょっと気づきにくい。
できれば高崎市として、入口に案内看板でも立てさせてもらい、観音山「石段コース」の名所として紹介してほしいものである。
片岡小学校から真っ直ぐ清水寺の石段へ向かう、いわゆる観音道路ができたのは意外と最近のことで、昭和7年ということだ。
それ以前は、片岡小学校の角を右折して、大きく左折しながら、この道祖神の辻に出てきていたようだ。
その頃、清水寺へ行くには、この辻から「有賀園ゴルフ練習場」の跡地に沿った道を進み、新川に架かる小さな橋を渡ることになる。
今、その橋から右手方向をみると、お堂が見える。
これが、「指出の寝観音」(さしでの・ねかんのん)である。
この「寝観音」は、子どもの夜泣きや、頭痛、不眠症など「寝られない」悩みに大変ご利益があるということで、昔は遠来からの参詣者も多かったそうであるが、今はすっかり忘れられてしまったようだ。
土屋喜英氏著「高崎漫歩」によると、ここの観音様には枕がたくさん奉納してあり、お願いをする人がその枕を借りていき、治った時には新しい枕を付けて返したという。
閉ざされた扉から中を覗き見ると、奥のガラス戸棚の中に、それらしい枕が積まれているのが見える。
ところで、片岡の地域には、指出(さしで)姓を持つ人が多い。
内山信次氏著「新撰高崎三十三観音」によると、大同2年(807年)坂上田村麻呂の命を受けた指出藤太夫という人が、この地に十一面観音を、翌3年(808年)清水寺に千手観音を造立して、この地に土着したのだという。
実はもうひとつ面白い話が伝わっている。
藤太夫の娘姉妹が都から下って来て、姉の姫が「寝観音」に、妹の姫が山に登って「清水の観音」になったのだという。
さらに、別のこんな言い伝えもある。
「指出の観音様」は三人姉妹で、姉と妹がいたという話だ。
そして、妹が清水寺の千手観音、姉は元島名にある福聚堂(ふくじゅどう)の千手観音になったというのだ。
いずれにしても、いかに名前が「寝観音」とはいえ、このまま寝かせておくには実にもったいない「観光資源」である。
しかし、指出家個人の持ち物ということもあるが、この「観音堂」は通りから奥まっていて、ちょっと気づきにくい。
できれば高崎市として、入口に案内看板でも立てさせてもらい、観音山「石段コース」の名所として紹介してほしいものである。