一里塚について大まかな推測なのですが、以下のことを思い付きました。
東一条通りを通っていた中山道が江戸時代のごく初期に田町通りに付け替えられたにもかかわらず、明治初年まで存在したのかは、ひとえにお稲荷様が塚の頂上にお祀りされたからではないかと思います。古墳などの小高い丘の上に神社や寺院を建ててお祀りするのと同様に、この古い一里塚も祠を建てる場所として最適だったのだろうと思います。
そして、明治初期、神仏分離令や廃仏毀釈などの宗教再編の嵐のなかで街や村の祠が大きな神社や寺院の境内に移され合祀された事例の通り、こちらのお稲荷様もいずれかの寺社に移されてしまったのだと推測します。
もし祠がそのままであったならば一里塚も現代に至るまで存続したのではないでしょうか。
それから、明治初年には「人家ナク」の九蔵町ですが、明治18年の地図では建物が建ち並んでいます。
高崎は江戸時代から絹の集散地で元禄頃には既に田町に市場があったとのことですが、明治に至っては関連する染織業が隆盛を極めていました。染織工場の開設・拡張に伴い、急激に九蔵町一体が市街地化し、一里塚も工場用地に転用されて崩されてしまったのではないでしょうか。
以上はあくまでも推測で、史料や証言の裏付けがありません。
はじめまして。高崎で生まれ育ちましたが、
そこで過ごした年月を越える長さを他の土地で暮らしてます。
子どもの時から歴史に関心があり、『高崎の散歩道』は家にあったのでよく読みました。
このブログは偶然発見しましたが、とても楽しく拝見しています。
さて「だるま紺屋」のことですが、九蔵町の「橋本染工場」さんは私の父の遠い親戚に当たります。
今は、おつきあいはありませんが、昔はよく父母や伯父伯母の話の中に「だるま紺屋」=橋本家のことが出てきました。
懐かしいです。そんな昔からあったとは知りませんでした!
今はだるま紺屋さんも移転しされたようですが、二十年ほど前までは九蔵町にあったような記憶があるのですが・・・
連投すみません。
もう一度ブログを読み返してましたら、
未だに「橋本染工場」は九蔵町にあるのですね。
工場は違うところに移ったような記憶があって・・・はっきりしないことを書きました。
お許し下さいませ。
子ども心に「だるま」「だるまさん」と橋本さんの家の事を大人たちがいうのを聞いて
「おもしろい名前だなぁ」と思っていました。
>ふれあい街歩きさん
いつもながらの、緻密な分析に感服です。
一里塚のお稲荷さんが、どこかに移されているのが発見されたら嬉しいですね。
当のお稲荷さんが、一番喜ぶかもしれませんが。
高崎市史には、「煙滅其跡ヲ止メズ。」に続けて「後年土中ヨリ祠ノ礎石トモ見ルベキ六角形ノ花岡石、基石ヲ発見ス。」と書いてありました。
九蔵町は街道の変更にも柔軟に変化したんですね。
変化には変化というのは、いつの世にも必要なことなのかもしれません。
>“故郷離れて”さん
とても嬉しいコメントです!
ありがとうございます。
やはり「だるま紺屋」さんは、「橋本染工場」さんだったんですね!
とても貴重な情報です!
しかも、ご親戚だったとは!
実は今日、「橋本染工場」さんの所へ行ってみたんです。
そしたら、空き地になっていました。
Yahoo!地図の情報が古かったようです。
“故郷離れて”さんのご記憶の方が正しかったのです。
私の方こそ、現地確認せずに書き込んでしまって申し訳ありませんでした。
今日、九蔵町界隈を散策して写真を撮ってきましたので、日曜日の記事でUPする予定です。
また、ご覧いただけると嬉しいです。
迷道院高崎さま。約2年前のブログに投稿させて頂きます。私は中山道の一里塚の研究をしている者です。高崎は関東で3つしか現存していない中山道一里塚の残る街ですが、反面、九蔵町の一里塚は高崎城下の街道の改修で江戸時代に姿を消しているので、私の研究では、3年前にかなり時間を掛て歩き回った場所です。
倉賀野・九蔵町・鎌倉街道・五万石騒動の記事、興味深く拝見しました。さすが地元の方は細かい所まで調べておられると感心しました。
このブログが先に公開されていれば、あんなに時間を掛けなくてもよかったのに…と、尊敬しつつも少々妬んでおります。
さて本題ですが、よそ者としてちょっと気になる事があります。資料として江戸時代の高崎藩士・川野辺寛さんが遺された高崎志が出てないのです。1789年(寛政元年)完成の資料を是非読んで下さい。私は古文書ではなく、群馬県史料集の第一巻に収録されている物を読みました。高崎市の図書館にあります。私の様な素人でも読めます。高崎市は前橋市と違い昔の地名を大切にしている所なので、現代の地図を広げながら読んだのですが、凄く記述が正確です。
高崎志は、高崎の街に住む人々の宝だと思うのです。図書館の開書庫で立ち読みでもして下さい。地元の方ならば、よそ者以上の感慨をお持ちになると思います。
>野火止次郎 様
ご丁寧なコメントと貴重なるご教示、ありがとうございました。
また、拙ブログの記事も沢山お読み頂いたとのこと、光栄に思っております。
ハンドルネームが旧高崎藩の飛び領「野火止」と仰るのも、これまた深いつながりを感じます。
野火止様の仰るとおり、高崎には城下町だったころの町名が残っていて、これは本当に大切な宝だと思います。
恥ずかしながら、「高崎志」を全て読み通したことはなく、その場その場で読みかじった程度ですが、仰せのとおり高崎を知るための原典でしょうね。
明治になって「更正高崎旧事記」を書いた土屋老平や、最近では「たかさき町知るべ」を書いた田島桂男氏も、原典としたのはおそらく「高崎志」だと思います。
ご教示を有難く承り、勉強していきます。
ありがとうございました。
橋本染物・・・・
昔、看板に「だるま」の絵が。
つまり、「アイキャッチャー」だったんですね。
裏手がその昔は「佐藤病院」で、子供の頃かかりました。
あの界隈、「酒井酒造」の酒蔵とか、それなりの趣があったんですけどね。
そうそう、モナカの「皮屋」さんは健在だそうです。
その「だるま」さんから、九蔵町電車通りまでちょっとした問屋街でした。
まあ、昔の横浜銀行のところ、四つ角、商工会議所だったし。
で、隣の「川崎家具」、もう廃業しちゃいましたけど、ぼくのおばあちゃんの弟の身代でした。
あの辺も問屋街ですね、「平野屋」、同級生の乾物問屋。小さな問屋がひしめき合ってました。
つーことは、「問屋町」は失政だったかも・・・・
今はその面影もありませんね、問屋町のネオン街。
>昭和24歳さん
いま思うと、問屋町は東口に造るべきだったんじゃないかと・・・。
さすれば東西競争で知恵を絞り、面白い町になったんじゃないかと。
モナカの「皮屋」さん、最近いろいろとお世話になっております。
高崎の昔の写真は、ほとんどそのお父上が撮ったものですからね。
ところで、川崎家具のあったビルの屋上にある岩のモニュメント、あれ、何なんでしょ?
>いま思うと、問屋町は東口に造るべきだったんじゃないかと・・・。
まあ、北が鬼門かどうかは知りませんが、仰るっとり「東口」の問屋街は名案です。
まあ、中居団地が「問屋町」でしょうか。っていうか、競馬場付近もあの時代昭和40年前後ならほとんどが田んぼでしたから十分可能性はあったはずです。
まあ、それ以前に問屋町の衰退は「流通革命」でした。それでも、地方の洋品店は未だ取引とか・・・・・
っていうか、「代理店制度」で、口銭、落ちてるみたいです老舗問屋。
>川崎家具のあったビルの屋上にある岩のモニュメント、あれ、何なんでしょ?
分かりません(^^ゞ
新興宗教でしょうか???
で、高崎なんですけど・・・・・
まあ、未だ世の中19世紀の産業革命のままの「ロコモーティブ・エネルギー」です。
そら、既得権者にとって他者の「革新」は恐ろしいわけですから封殺。
まあ、街も一緒ですね。戦後、小島、住谷、沼賀、松浦、富岡、中央に翻弄されっぱなし。
で、いよいよ再開発も手詰まりで、旧市街地のゴーストタウン化はとどまるところを知りません。
>昭和24歳さん
今朝の上毛に、東口の整備計画が載ってましたね。
コンベンション機能を持たせた箱ものを造って集客力UPを狙うとかですが、客は一体どこから来るんでしょう?
東京から1時間かけて東京に似せた町に来るとは思えないし、東京まであと1時間で行けるのに東京に似せた町に途中下車するとも思えないし・・・。
結局、「地産地消」ですか。