
いつも歴史遺産の破壊を嘆いてばかりですが、この旧中山道松並木の復元は「よく、やってくれた!」と嬉しい気持で一杯になります。

右の写真は、高崎で生まれ育った写真家・伊藤富太郎氏が残してくれた、大正9年(1920)当時の松並木の姿です。(写真は高崎市史民俗調査報告書「倉賀野町の民俗」より拝借)
「高崎の散歩道 第二集」に、「高崎市史」よりとして、安政三年(1856)当時の倉賀野宿から高崎宿間の並木の本数が記されています。
松杉 二千七百本
新植付 八百三十五本
もともとは、松と杉の並木だったようですね。

同報告書によると、夜間、自動車が度々分離帯の柱に衝突し、消防自動車まで衝突するに及んで、ついに昭和二十五年(1950)頃、分離帯を取り除いたということです。
この時から、並木は片側のみになったのですね。
片側だけになってしまった並木に、今度は自動車の排気ガスが襲いかかります。
昭和三十六年(1961)には並木の多くが枯れ、倉賀野宿から和田多中間には、杉49本、松8本だけになってしまいます。
そして、枯れ残った並木も昭和三十八年(1963)にすべて伐採されてしまいました。
さて、その後、現在の松並木が一体いつ、どのような経緯で復元されたのでしょうか?
その話は、次回に回すとしましょう。
ところで、倉賀野宿には一里塚もあったようです。
場所は、「安楽寺」の少し高崎寄りで、街道の両側にあったということですが、今は跡形もなく消えてしまいました。
その一里塚は、江戸日本橋から二十六里(102km)目だったそうです。
因みに、二十七里目の一里塚は高崎宿九蔵町にあったということです。
現在残っている豊岡の一里塚は二十八里目ということになります。

復元された松並木が大きく育ってきたことでもあり、せめて「一里塚跡」という碑だけでも、建てられないものでしょうか。
(参考図書:「高崎の散歩道 第二集」、「倉賀野町の民俗」)