明治三十年(1897)の「髙﨑街全圖」を見ると、山田町に「昇明社」というのがあります。
どんな会社なんでしょう。
「新編高崎市史通史編4」の索引で「昇明社」を引くと、こんな表の中にありました。
明治二十三年(1890)にできた製糸会社で、須藤市之助という人が代表になっています。
しかし、表以外の記事は何もありません。
いろいろ調べていると、故高階勇輔先生が「商工たかさき」に連載していた「高崎産業経済史」に、少し記載がありました。
おや?と思うのは、「須藤清七が設立」とあることです。
前掲の表では、代表者は須藤市之助となっていましたが・・・。
ここで、須藤清七について少し書いておきましょう。
高崎の大実業家でありながら、その生涯を著したものは意外と少ないのですが、多胡碑記念館和田健一氏の「石碑めぐり」の記事が実によくまとまっているので、使わせて頂きます。
少し補足すると、父は岡田平左衛門、母は竹女、清七の幼名は柳太郎。
元旦の生まれだと言いますから、そこからして傑物です。
幼くして少林山達磨寺の僧に書算を習い、家業の農事を嫌って村の群童と商いごっこをして遊んでいたと言います。
志を抱いて江戸へ出たのは嘉永元年(1848)十四歳の時、働きぶりが主人に認められ、十七歳にして番頭として店の一切を任されるようになります。
独立を決意して鼻高村の故家へ帰ったのが安政三年(1856)(安政五年説もある)、四ッ屋町に移って古着商を始めるのはその翌年のことです。
自分の衣類を売って得た金十円を元手に、日々古着を背負って市内外各地を行商して歩き、次第に売上を増やしていきました。
そして二十四歳で妻を娶り、妻の姓である須藤となります。
前掲「石碑めぐり」の文中、「蚕種業に転じて大失敗」というのが出てきますが、「上毛近世百傑伝」ではこう書かれています。
それまでの貯蓄が一時に消滅したというんですから、えれーこん(えらいこと)です。
それにもめげず再び横浜で成功をおさめ、明治三年(1870)高崎九蔵町の「第二国立銀行」の真ん前に両替店を開くわけです。
そして明治二十三年(1890)山田町に器械製糸工場を設立し、「昇明社」ブランドで海外貿易に乗り出します。
しかし、明治二十八年(1895)の「第四回内国勧業博覧会」の審査では、あまり良い評価を得られませんでした。
「昇明社出品は糸質不良にして絡交(らっこう:生糸を枠に巻き取る際に生糸に与える一定の秩序)不正、加うるに色沢(しきたく:色つや)また佳ならず」なんて言われちゃってます。
そしてやがて衰退していくのです。
「高崎産業経済史」の続きを読んでみましょう。
明治三十三年(1900)65歳の清七は家政を嗣子・市之助に任せ、自身は別荘「椿荘」(現・暢神荘)で悠々老後を送ろうと思っていたようです。
が、高崎市に於いて水力電気事業の計画が起こり、もうひと頑張りすることになるのですが。
一方「昇明社」は、明治四十三年(1910)「信用販売組合甘楽社山田組」と改称されますが、昭和四年(1929)発行の「上毛産業組合史」には「経営を誤り中途で解散するの止むなきに至ったか」という記述があります。
さて、かつて「昇明社」があった場所は何処で、今はどうなっているんでしょう。
「昇明社」の住所は山田町9番地だということが分かっており、明治時代の道筋も割合と残っていますので、ここら辺だなと見当がつきます。
「高崎聖オーガスチン教会」の真ん前です。
「山田町」、なかなか面白い歴史をもつ町です。
どんな会社なんでしょう。
「新編高崎市史通史編4」の索引で「昇明社」を引くと、こんな表の中にありました。
明治二十三年(1890)にできた製糸会社で、須藤市之助という人が代表になっています。
しかし、表以外の記事は何もありません。
いろいろ調べていると、故高階勇輔先生が「商工たかさき」に連載していた「高崎産業経済史」に、少し記載がありました。
「 | 旭社は明治二十年現在で資本金額で第一位を占め、翌年、生産が軌道に乗って営業高一万円を超え、他社を圧倒する存在であった。(略) |
他方、高崎の両替商の須藤清七による昇明社が設立されたのは明治二十三年のことである。 | |
この二社がこの時期の高崎製糸業で支配的地位を占めていたとはいえ、製糸諸結社の簇生的状況の中から、都市商業資本による問屋制型改良座繰製糸によって高崎周辺部にその支配の網の目を張りめぐらすには至らなかった。」 |
前掲の表では、代表者は須藤市之助となっていましたが・・・。
ここで、須藤清七について少し書いておきましょう。
高崎の大実業家でありながら、その生涯を著したものは意外と少ないのですが、多胡碑記念館和田健一氏の「石碑めぐり」の記事が実によくまとまっているので、使わせて頂きます。
少し補足すると、父は岡田平左衛門、母は竹女、清七の幼名は柳太郎。
元旦の生まれだと言いますから、そこからして傑物です。
幼くして少林山達磨寺の僧に書算を習い、家業の農事を嫌って村の群童と商いごっこをして遊んでいたと言います。
志を抱いて江戸へ出たのは嘉永元年(1848)十四歳の時、働きぶりが主人に認められ、十七歳にして番頭として店の一切を任されるようになります。
独立を決意して鼻高村の故家へ帰ったのが安政三年(1856)(安政五年説もある)、四ッ屋町に移って古着商を始めるのはその翌年のことです。
自分の衣類を売って得た金十円を元手に、日々古着を背負って市内外各地を行商して歩き、次第に売上を増やしていきました。
そして二十四歳で妻を娶り、妻の姓である須藤となります。
(参考図書:「上毛近世百傑伝」)
前掲「石碑めぐり」の文中、「蚕種業に転じて大失敗」というのが出てきますが、「上毛近世百傑伝」ではこう書かれています。
「 | 時に年廿七歳 后(の)チ高崎藩の竝用達(御用達)ヲ申付ラル君ハ 蠶種ヲ輸出セント欲シ 數萬枚ヲ越後國ヨリ買入レ 横濱ニ持チ往キタルニ 意外ニ失敗ヲ生ス |
君數年ノ刻苦奔走貯蓄シタル金圓一時ニ消滅ス | |
嗚呼恐ル可キハ商業ナル哉」 |
それにもめげず再び横浜で成功をおさめ、明治三年(1870)高崎九蔵町の「第二国立銀行」の真ん前に両替店を開くわけです。
そして明治二十三年(1890)山田町に器械製糸工場を設立し、「昇明社」ブランドで海外貿易に乗り出します。
しかし、明治二十八年(1895)の「第四回内国勧業博覧会」の審査では、あまり良い評価を得られませんでした。
「昇明社出品は糸質不良にして絡交(らっこう:生糸を枠に巻き取る際に生糸に与える一定の秩序)不正、加うるに色沢(しきたく:色つや)また佳ならず」なんて言われちゃってます。
そしてやがて衰退していくのです。
「高崎産業経済史」の続きを読んでみましょう。
「 | さて、「第三次全国製糸工場調査表」(1900年現在)には昇明社は掲載されていない。 また明治三十年の「勧業年報」に記載されたのを最後に、「年報」に登場しなくなる。 おそらく同社はこの頃から急速に衰退過程を辿ったものと推定される。」 |
明治三十三年(1900)65歳の清七は家政を嗣子・市之助に任せ、自身は別荘「椿荘」(現・暢神荘)で悠々老後を送ろうと思っていたようです。
が、高崎市に於いて水力電気事業の計画が起こり、もうひと頑張りすることになるのですが。
一方「昇明社」は、明治四十三年(1910)「信用販売組合甘楽社山田組」と改称されますが、昭和四年(1929)発行の「上毛産業組合史」には「経営を誤り中途で解散するの止むなきに至ったか」という記述があります。
さて、かつて「昇明社」があった場所は何処で、今はどうなっているんでしょう。
「昇明社」の住所は山田町9番地だということが分かっており、明治時代の道筋も割合と残っていますので、ここら辺だなと見当がつきます。
「高崎聖オーガスチン教会」の真ん前です。
「山田町」、なかなか面白い歴史をもつ町です。