市(まち)の南のはづれなる
下和田町に龍見町
次なる町は鎌倉町
往古鎌倉街道よ
下和田町に龍見町
次なる町は鎌倉町
往古鎌倉街道よ
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、「町名の由来」というのが載っています。
「 | 當市は從来”宿”又は”驛”と稱し群馬郡の一部たりしが、明治十二年東西二郡に分劃して西群馬郡に編入せられ、二十二年四月より高崎町と稱せり。 |
三十三年四月市制を實行す」 |
「西群馬郡」の頃は「高崎」もまだ小さなものでした。
「下和田村」は明治二十二年(1889)「高崎町」が成立した時に合併します。
合併前の明治六年(1873)「下和田村」の一部を分割してできた町が「龍見町」です。
上の「高崎市全圖」で「高崎」の右下に出っ張ってるのがそれです。
高崎歴史資料研究会の中村茂先生が編集・発行された「高崎藩分限帳集成(下)」に、明治六年(1873)の「龍見町居住者名簿」というのがあり、そこに「龍見町の由来」が記載されています。
「 | 明治維新封建制度の瓦解と共に藩主の家族高崎に移住し、定府※の士卒凡(およ)そ三百余戸も亦(また)遂に此に移り新設或は寺院に寓居せしが、明治元年冬、南、赤坂、和田の三郭(くるわ)を設け、大に邸宅を新築し以て是等士卒の居住ニ充つることゝし、仝(どう)二年初夏、其の落成と共に此処に引移らしめたり。 |
和田郭は赤坂村及下和田村の一部壱万六千六百余坪を分割して設けられ、町家と区別し純然たる屋敷町なりしが、明治六年三月区画設置の際、其位置旧城の巽位(辰巳)に當るを以、左氏傳荘公二十九年の項中なる凡土功龍見而畢務の句を採り龍見町と命名せるなり。」 |
※ | じょうふ(江戸時代において参勤交代を行わずに江戸に定住する将軍や藩主およびそれに仕える者の状態) |
前半の部分では、江戸詰め藩士およそ三百戸余りが高崎に移り、家を新設したり寺院に寓居したが、明治元年(1868)に南郭、赤坂郭、和田郭を設け、明治二年(1869)ここに引っ越したと書いてあります。
後半は和田郭について書かれており、赤坂村と下和田村の一部を分割(買収?)して屋敷町を設けたとあります。
その次に「龍見町」と命名した由来が書いてあります。
旧高崎城の巽(たつみ)の方角(南東)に位置するので「たつみ町」なのですが、その文字を「巽町」でもなく「辰巳町」でもなく「龍見町」にしたという部分が難しいです。
中国の古い歴史書「春秋左氏伝」(しゅんじゅうさしでん)に出てくる、「凡土功龍見而畢務」という句から「龍見」という字を採ったというんですね。
昔の人の博学・博識には頭が下がります。
その「凡土功龍見而畢務」は、塚本哲三氏編著によれば、「凡(およ)そ土功(どこう)は、龍見えて務めを畢(おわ)れば」と読み、「およそ土木のことは、龍星が見える頃(旧暦九月)には農業が終わるから」という意味だとか。
「龍星」とは、今の「さそり座」の頭部にある星で、この頃の夕方に東方に見えるんだそうです。
前掲「明治六年龍見町居住者名簿」を見ると、「和田郭」には121名の居住者がいます。
宅地は広い家で1反1畝20歩(1157㎡=350坪)、一番狭い家が1畝20歩(165㎡=50坪)です。
さて、次なる町が「鎌倉町」。
そんな町名聞いたことがないという方もいらっしゃるでしょうか。
「龍見町」の西北にあった町です。
現在は「若松町」に含まれています。
田島桂男氏著「高崎の地名」から引用させて頂きます。
「 | 髙崎ができる前、「和田宿」の時代から「植竹」と呼ばれ、赤坂村の一部であったところである。 |
町としては明治六年(1873)になって誕生した。 町名は、地内を古道である鎌倉街道が通っていたのでつけられた町名である。 |
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この町は大正十四年(1925)分割されて、若松町と竜見町とになった。 一時的には「植竹町」と呼ばれていた時代もあった。」 |
「鎌倉街道」と言えば、もう12年も前になりますが、この辺をうろつき回ったことがありました。
お時間があったら、過去記事をご覧くださいませ。
◇鎌倉街道探訪記(4)
◇鎌倉街道探訪記(5)
◇鎌倉街道探訪記(6)