今回は、竜見町の崖上を通る鎌倉道です。
田島桂男氏著「高崎町知るべ」によると、この竜見町は、江戸の高崎藩邸に勤めていた藩士とその家族が、明治維新によって高崎へ引き上げてくることになり、藩がこの地を買収して藩士の為の住宅を作り、「和田郭」と呼んだそうです。
明治四年(1871)町名を付けるにあたり、高崎城の辰巳の方角(南東)にあたるので、縁起の良い字を当てて龍見町としたといいます。
烏川の河岸段丘上のこの地は、人間にとって暮らしやすかったのか、はるか古代から人々が生活していたようです。
この辺りから、形は弥生式土器で紋様は縄文という、全国的にも珍しい土器が発見されており、その名も「竜見町式土器」と命名されています。
同種の土器は、城南小校庭や競馬場の遺跡発掘でも発見されているそうです。
さて、先へ進みましょう。
よく見ると、草むらの中にはいくつもの石仏が隠れていました。
そのひとつは、幼くして亡くなった子どもの供養でしょうか、「故信童子霊位」と刻まれたお地蔵様もあります。
明和三年(1766)とありますから、江戸の中頃です。
さて、また坂の上まで戻って出直しです。
やれやれ・・・。
道祖神の四つ辻から薬師堂跡前の坂道を上って振り向いたところです。 で、今度は坂を下らずに左へ行きます。 |
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曲ってすぐ、大きなケヤキの木の下を右に入ります。 | |
その道は細く曲がりくねった、いかにも古の旅人が歩いたであろう面影を残す道です。 「鎌倉街道だ!」と、根拠もなく確信した瞬間です。 |
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古の道は現代の家に阻まれ、道は逆「コ」の字に迂回してここに出ます。 井上保三郎翁の別邸・「観水園」があったのは、この辺だと推定しています。 |
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確かこの先に、素敵な煉瓦倉蔵と大正モダン風の家があったはずです。 ありました、ありました。どちらもまだ残っていてくれたことに、嬉しさが込み上げてきます。 |
田島桂男氏著「高崎町知るべ」によると、この竜見町は、江戸の高崎藩邸に勤めていた藩士とその家族が、明治維新によって高崎へ引き上げてくることになり、藩がこの地を買収して藩士の為の住宅を作り、「和田郭」と呼んだそうです。
明治四年(1871)町名を付けるにあたり、高崎城の辰巳の方角(南東)にあたるので、縁起の良い字を当てて龍見町としたといいます。
烏川の河岸段丘上のこの地は、人間にとって暮らしやすかったのか、はるか古代から人々が生活していたようです。
この辺りから、形は弥生式土器で紋様は縄文という、全国的にも珍しい土器が発見されており、その名も「竜見町式土器」と命名されています。
同種の土器は、城南小校庭や競馬場の遺跡発掘でも発見されているそうです。
さて、先へ進みましょう。
よく見ると、草むらの中にはいくつもの石仏が隠れていました。
そのひとつは、幼くして亡くなった子どもの供養でしょうか、「故信童子霊位」と刻まれたお地蔵様もあります。
明和三年(1766)とありますから、江戸の中頃です。
さて、また坂の上まで戻って出直しです。
やれやれ・・・。
【今日の散歩道】