藤岡の興味スポットをもう一つ。
群馬で上野介といえば、小栗上野介忠順(ただまさ)を思い浮かべる人がほとんどでしょうが、忠臣蔵でおなじみの吉良上野介義央(よしひさ/よしなか)も群馬と深い関係があったんですね。
藤岡の白石という所に、「吉良上野介館跡」というのがあります。
吉良氏は三河(愛知県)の出で、吉良義弥(よしみつ)の時に関ヶ原の戦いに従軍し、その功により三河国幡豆(はず)郡に3,000石余りの知行を受けました。
ここが、後の吉良町です。
その家督を引き継いだ長男・義冬の代になって、上野国碓氷郡人見村(松井田町)約300石と、緑埜郡白石村(藤岡市)約700石が加増されます。
そこで、白石村の所領を治めるため、寛永五年(1628)に造られたのが、ここ白石陣屋です。
もっとも、領主の義冬は旗本ですから江戸定府の身、ここは家臣の長船(おさふね)氏を派遣して治めさせていたのですが、義冬は妻を伴って、しばしばこの陣屋を訪れていたそうです。
妻の茂姫(大老酒井忠勝の姪)は流産癖があったとかで、「子宝の湯」として名高い伊香保温泉に湯治に行っていたようです。
寛永十八年(1641)の秋、いつものように湯治の帰りに寄った白石陣屋で、懐妊中の妻が俄かに産気づき、男の子を出産しました。
それが、長男・義央、後に忠臣蔵で憎まれ役となる吉良上野介です。
その時、産湯に使う水を汲んだという井戸が、残っているんです。

ただ、吉良家の系譜では、義央は江戸鍛冶橋の吉良邸で生まれたとなっているそうです。
格式を重んじる吉良家にとって、田舎の陣屋で生まれちゃったという訳にもいかなかったのでしょう。
松の廊下の一件で、義央は江戸の郊外・本所へ屋敷替えを命ぜられ、ここで赤穂浪士の討ち入りに遭って生涯を閉じることになります。
その屋敷跡とされる所には、「首洗いの井戸」というのが残っているそうです。
井戸で始まり、井戸で終わる吉良上野介。
忠臣蔵ではすっかり悪者扱いですが、故郷の吉良町の領民には、庶民的な殿様として親しまれ、塩田の造成や治水など産業の基礎を造った名君として、尊敬されているようです。
「産湯の井戸」の看板にもあるように、白石でも自分たちの殿様を悪者にした忠臣蔵の芝居は、上演したり見物したりしなかったそうですが、藤岡市は平成七年(1995)から、忠臣蔵ゆかりの全国34市町村が集う「忠臣蔵サミット」に参加するようになりました。
「忠臣蔵サミット」の参加市町村を見ると、長年の怨念を超えて手を握り合う、日本人の良さを感じます。
「上野介サミット」なんていうのも、できないものでしょうか。
「上野介」は悲運の官位といわれています。
吉良義央、小栗忠順の他にも、「宇都宮城釣天井事件」をでっち上げられ失脚した本多正純、幕政批判をして所領を没収され後に配流先の徳島で鋏で喉を突いて自害した堀田正信も、「上野介」でした。
とかく人の評価は、時の風に流されるもの。
風がやんでから、違うものが見えることもよくあることで。
群馬で上野介といえば、小栗上野介忠順(ただまさ)を思い浮かべる人がほとんどでしょうが、忠臣蔵でおなじみの吉良上野介義央(よしひさ/よしなか)も群馬と深い関係があったんですね。
※ | 蛇足ですが、「上野介」は官位の呼び名であって、この時代では領地との関係は特になかったようです。 |

吉良氏は三河(愛知県)の出で、吉良義弥(よしみつ)の時に関ヶ原の戦いに従軍し、その功により三河国幡豆(はず)郡に3,000石余りの知行を受けました。
ここが、後の吉良町です。
その家督を引き継いだ長男・義冬の代になって、上野国碓氷郡人見村(松井田町)約300石と、緑埜郡白石村(藤岡市)約700石が加増されます。
そこで、白石村の所領を治めるため、寛永五年(1628)に造られたのが、ここ白石陣屋です。
もっとも、領主の義冬は旗本ですから江戸定府の身、ここは家臣の長船(おさふね)氏を派遣して治めさせていたのですが、義冬は妻を伴って、しばしばこの陣屋を訪れていたそうです。
妻の茂姫(大老酒井忠勝の姪)は流産癖があったとかで、「子宝の湯」として名高い伊香保温泉に湯治に行っていたようです。
寛永十八年(1641)の秋、いつものように湯治の帰りに寄った白石陣屋で、懐妊中の妻が俄かに産気づき、男の子を出産しました。
それが、長男・義央、後に忠臣蔵で憎まれ役となる吉良上野介です。


ただ、吉良家の系譜では、義央は江戸鍛冶橋の吉良邸で生まれたとなっているそうです。
格式を重んじる吉良家にとって、田舎の陣屋で生まれちゃったという訳にもいかなかったのでしょう。
松の廊下の一件で、義央は江戸の郊外・本所へ屋敷替えを命ぜられ、ここで赤穂浪士の討ち入りに遭って生涯を閉じることになります。
その屋敷跡とされる所には、「首洗いの井戸」というのが残っているそうです。
井戸で始まり、井戸で終わる吉良上野介。
忠臣蔵ではすっかり悪者扱いですが、故郷の吉良町の領民には、庶民的な殿様として親しまれ、塩田の造成や治水など産業の基礎を造った名君として、尊敬されているようです。
「産湯の井戸」の看板にもあるように、白石でも自分たちの殿様を悪者にした忠臣蔵の芝居は、上演したり見物したりしなかったそうですが、藤岡市は平成七年(1995)から、忠臣蔵ゆかりの全国34市町村が集う「忠臣蔵サミット」に参加するようになりました。
「忠臣蔵サミット」の参加市町村を見ると、長年の怨念を超えて手を握り合う、日本人の良さを感じます。
「上野介サミット」なんていうのも、できないものでしょうか。
「上野介」は悲運の官位といわれています。
吉良義央、小栗忠順の他にも、「宇都宮城釣天井事件」をでっち上げられ失脚した本多正純、幕政批判をして所領を没収され後に配流先の徳島で鋏で喉を突いて自害した堀田正信も、「上野介」でした。
とかく人の評価は、時の風に流されるもの。
風がやんでから、違うものが見えることもよくあることで。
【吉良上野介産湯の井戸】