「山の上の辻」から南へ、坂を下って600mほど行くと、上信電鉄の小さな無人駅「西山名駅」に出ます。
素朴な駅舎の多い上信電鉄の、しかも無人駅にしては、えらくハイカラな感じのする駅です。
10年前までは何もない空き地の駅前でしたが、隣にある「県立高崎産業技術専門校」の学生さん達が実習を兼ねて、こんな素敵な駅に生まれ変わらせたのです。
技術専門校の7つの科が、それぞれの専門技術を生かして、待合室をはじめ、花壇、噴水、スロープ、自転車置き場などを、平成十三年(2001)から2年がかりで造り上げました。
黒塗りのお洒落な待合室に掲示してある駅長さんのメッセージから、感謝の気持ちが伝わってきます。
駐輪場にあるこれも、きっと技術専門校の方が設置したものでしょう。→
と、説明板に書いてあります。
さらに、こうも。
遊び心満点で、いいですねぇ。
自由に入れる駅のホームに、新聞受けみたいな木箱が取り付けられていました。
「上野三碑・山上碑及び古墳案内図」と書いてあります。
箱の中には、高崎市観光課作成の「上野三碑を歩こうマップ」が入っていて、自由に頂戴できるようになっています。
さて、この「西山名駅」ですが、上信電鉄の全線電化(大正十三年・1924)後6年経ってから、新設された駅です。
当時の駅名は、なんと「水泳場前停留場」といいました。
海無し県の、それも水の便が悪いというこの地の、どこに水泳場があったのかと思うでしょうが、近くを流れる鏑川に、人工の天然水泳場(?)があったのです。
←造ったのはこの人、上信電鉄の第10代社長・山田昌吉氏です。
山田昌吉氏は、このブログにたびたび登場して頂いております。
◇2009年09月30日 さすらいの「春靄館」
◇2010年04月21日 和風図書館と茂木銀行
◇2011年05月22日 鎌倉街道探訪記(29)
山田昌吉氏が、上信電鉄の前身である上野(こうずけ)鉄道の社長に就任したのは、大正十年(1921)のことです。
明治三十年(1879)開業の上野鉄道は徐々に経営難に陥り、大正二年(1913)には6万円の借金のために、東京の安田銀行に経営を委ねなければならないという状態にまで追い込まれていました。
当時、茂木銀行高崎支店の支配役であった山田昌吉氏は、
「地元の鉄道事業を、わずかな金額で中央資本に売り渡すべきではない。」と主張し、6万円を融資して上野鉄道の窮状を救ったのです。
しかし、その後も上野鉄道の経営悪化は止まらず、ついに、辣腕振りを見込まれた山田昌吉氏に、白羽の矢が立ったわけです。
社長に就任した山田氏が真っ先に取り組んだのは、路線の軌間拡幅と電化(大正十三年・1924)で、社名も上信電氣鐡道と改めました。
これにより、国鉄線との相互乗り入れが可能となり、輸送力増強と動力費の節減が図れたのです。
それまで20万円程度であった資本金は、一気に200万円に増資されています。
次に山田氏が取り組んだのが沿線の観光振興による旅客数向上で、「山名水泳場」の開設はその一環でした。
昭和四年(1929)に開設した「山名水泳場」は、自然の景観の良さに加え、流れの変化もあり、山名駅から近いということもあって、予想外の大好評を博したということです。
そして翌・昭和五年(1930)、より近くにと開設したのが「水泳場前停留場」で、当時はプラットホームだけの仮設駅だったそうです。
さて、では「山名水泳場」はいったいどんな水泳場で、どの辺にあったのか、それは次回のお楽しみということに。
素朴な駅舎の多い上信電鉄の、しかも無人駅にしては、えらくハイカラな感じのする駅です。
10年前までは何もない空き地の駅前でしたが、隣にある「県立高崎産業技術専門校」の学生さん達が実習を兼ねて、こんな素敵な駅に生まれ変わらせたのです。
技術専門校の7つの科が、それぞれの専門技術を生かして、待合室をはじめ、花壇、噴水、スロープ、自転車置き場などを、平成十三年(2001)から2年がかりで造り上げました。
黒塗りのお洒落な待合室に掲示してある駅長さんのメッセージから、感謝の気持ちが伝わってきます。
駐輪場にあるこれも、きっと技術専門校の方が設置したものでしょう。→
ハイテク空気入れ 明治維新 | |
この機械は自動車のエンジンを使って作られた自転車用の空気入れです。 | |
空気入れの口を自転車タイヤの空気入れ口に取り付けて、右に回してください。 |
さらに、こうも。
「 | 空気を入れなくても回してみると、ピストンが動いてなんだかちょっと面白いかも。」 |
自由に入れる駅のホームに、新聞受けみたいな木箱が取り付けられていました。
「上野三碑・山上碑及び古墳案内図」と書いてあります。
箱の中には、高崎市観光課作成の「上野三碑を歩こうマップ」が入っていて、自由に頂戴できるようになっています。
さて、この「西山名駅」ですが、上信電鉄の全線電化(大正十三年・1924)後6年経ってから、新設された駅です。
当時の駅名は、なんと「水泳場前停留場」といいました。
海無し県の、それも水の便が悪いというこの地の、どこに水泳場があったのかと思うでしょうが、近くを流れる鏑川に、人工の天然水泳場(?)があったのです。
←造ったのはこの人、上信電鉄の第10代社長・山田昌吉氏です。
山田昌吉氏は、このブログにたびたび登場して頂いております。
◇2009年09月30日 さすらいの「春靄館」
◇2010年04月21日 和風図書館と茂木銀行
◇2011年05月22日 鎌倉街道探訪記(29)
山田昌吉氏が、上信電鉄の前身である上野(こうずけ)鉄道の社長に就任したのは、大正十年(1921)のことです。
明治三十年(1879)開業の上野鉄道は徐々に経営難に陥り、大正二年(1913)には6万円の借金のために、東京の安田銀行に経営を委ねなければならないという状態にまで追い込まれていました。
当時、茂木銀行高崎支店の支配役であった山田昌吉氏は、
「地元の鉄道事業を、わずかな金額で中央資本に売り渡すべきではない。」と主張し、6万円を融資して上野鉄道の窮状を救ったのです。
しかし、その後も上野鉄道の経営悪化は止まらず、ついに、辣腕振りを見込まれた山田昌吉氏に、白羽の矢が立ったわけです。
社長に就任した山田氏が真っ先に取り組んだのは、路線の軌間拡幅と電化(大正十三年・1924)で、社名も上信電氣鐡道と改めました。
これにより、国鉄線との相互乗り入れが可能となり、輸送力増強と動力費の節減が図れたのです。
それまで20万円程度であった資本金は、一気に200万円に増資されています。
次に山田氏が取り組んだのが沿線の観光振興による旅客数向上で、「山名水泳場」の開設はその一環でした。
昭和四年(1929)に開設した「山名水泳場」は、自然の景観の良さに加え、流れの変化もあり、山名駅から近いということもあって、予想外の大好評を博したということです。
そして翌・昭和五年(1930)、より近くにと開設したのが「水泳場前停留場」で、当時はプラットホームだけの仮設駅だったそうです。
さて、では「山名水泳場」はいったいどんな水泳場で、どの辺にあったのか、それは次回のお楽しみということに。
(参考図書:「上信電鉄百年史」)
【西山名駅】