久し振りに、鎌倉街道です。
そこには、真新しい石柱が建っていて、「薬師如来御堂跡」と刻まれています。
背面には、「平成二十二年四月二十八日」とあります。
どうやら、今年の四月にお堂は取り壊されたようです。
たしか、以前写真に撮っておいたはずなので、家に戻ってからパソコンの中を引っかき回して見ましたが、どうしても見つかりません。
ブログに使わなかったので、どうやら捨ててしまったようです。
諦めきれずに、翌日、ご近所で聞き回ってみましたら、「区長さんが写真を持ってるかも知れない。」という情報を頂きました。
早速お訪ねしたところ、区長の三芳さんはとても親切な方で、お堂を解体した経緯をお話し頂き、解体の様子を撮った何枚もの写真を見せて下さいました。
ありがたいことに、「好きな写真、持ってって下さい。」と仰って頂いたので、お堂の解体供養の時の写真を頂戴してきました。
写真でもお分かり頂けるでしょうが、屋根の瓦は崩れ落ちています。
お堂自体も、手で押すとグラグラする危険な状態だったそうです。
「小万地蔵」と違って、お堂をお守りする人もいなくなった現在、解体するしかなかったと三芳区長さんは仰っていました。
それでも、こうやってきちんと供養し、「薬師如来御堂跡」という石柱を残して頂いたことに、深く敬意を表したいと思います。
「無縁(?)佛供養塔」には「薬師堂宇改築 昭和十四年十一月」と刻まれていますので、少なくともこの頃までは、地域にお堂をお守りしてる方がいたようです。

このお堂がいつ頃建てられたものか、資料は一切残っていないようですが、「月山 湯殿山 羽黒山」と刻まれた石仏には、江戸時代中期の宝暦五年(1755)の文字が見えます。
道祖神の四つ辻を左に進むと、城南球場に至ります。
この辺に鎌倉道が通っていたとすると、烏川の河原の中だったでしょう。
大雨で川の水位が上がった時は、通行できなかったに違いありません。
そんな時、旅人は竜見町の崖上を通ったようです。
次回は、その道を辿ってみることに致しましょう。

![]() | 「小万地蔵堂」の上の細道、ずーっとこの雰囲気で続いて欲しいところですが、すぐにもう1本北からの道と合流します。 | |
![]() | この辺りは、まるで毛細血管のように、細い道が入り組んでいます。 道なりに進んで行ってみましょう。 | |
![]() | 同じような丁字路が出現しながら、道は下っていきます。 | |
![]() | 前方の一角を見て、「あれっ?」と思いました。 確か、以前ここにはお堂があったはずなのです。 |

背面には、「平成二十二年四月二十八日」とあります。
どうやら、今年の四月にお堂は取り壊されたようです。
たしか、以前写真に撮っておいたはずなので、家に戻ってからパソコンの中を引っかき回して見ましたが、どうしても見つかりません。
ブログに使わなかったので、どうやら捨ててしまったようです。
諦めきれずに、翌日、ご近所で聞き回ってみましたら、「区長さんが写真を持ってるかも知れない。」という情報を頂きました。
早速お訪ねしたところ、区長の三芳さんはとても親切な方で、お堂を解体した経緯をお話し頂き、解体の様子を撮った何枚もの写真を見せて下さいました。

写真でもお分かり頂けるでしょうが、屋根の瓦は崩れ落ちています。
お堂自体も、手で押すとグラグラする危険な状態だったそうです。
「小万地蔵」と違って、お堂をお守りする人もいなくなった現在、解体するしかなかったと三芳区長さんは仰っていました。
それでも、こうやってきちんと供養し、「薬師如来御堂跡」という石柱を残して頂いたことに、深く敬意を表したいと思います。


このお堂がいつ頃建てられたものか、資料は一切残っていないようですが、「月山 湯殿山 羽黒山」と刻まれた石仏には、江戸時代中期の宝暦五年(1755)の文字が見えます。
![]() | 「薬師如来御堂跡」前の道をさらに下ると、角に道祖神の建つ四つ辻に出ます。 真っ直ぐ進めば国道下、右は「小万坂」へ戻る道です。 | |
![]() | 道祖神には、「文政己卯仲夏」とあるので、文政二年(1819)のものです。 江戸時代も後期に入った頃ですね。 |

この辺に鎌倉道が通っていたとすると、烏川の河原の中だったでしょう。
大雨で川の水位が上がった時は、通行できなかったに違いありません。
そんな時、旅人は竜見町の崖上を通ったようです。
次回は、その道を辿ってみることに致しましょう。
【今日の散歩道】
