若松町に光明寺
夢に名を得し愛染堂
豊川稲荷は龍広寺
坂を下りて藤花園
夢に名を得し愛染堂
豊川稲荷は龍広寺
坂を下りて藤花園
若松町にある「光明寺」、左側のお堂が「夢に名を得し愛染堂」です。
なぜ「夢に名を得し」なのかは、過去記事をご覧ください。
次に「豊川稲荷は龍広寺」ですが、龍広寺の山門を潜って本堂の左手前にあるのがその「豊川稲荷」です。
鳥居の扁額には「豊川吒枳尼天」と書いてあります。
お稲荷さんと「吒枳尼天(だきにてん)」との関係は、なかなかややこしいです。
書き始めると長くなるので、詳しく知りたい方はWikipedia「荼枳尼天」をご覧ください。
現在では「龍広寺」でお稲荷さんを連想する方は少ないと思うのですが、「高崎唱歌」をつくった頃は参拝に訪れる人が多かったようです。
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」に、こう書かれています。
「 | 寺内に陀枳尼天の堂あり、里人豊川稲荷と呼ぶ。 花柳社會の参拝者多し。」 |
さて次の歌詞「坂を下りて藤花園」は、おそらく皆さん、何のことだろうと思ったのではないでしょうか。
「坂」というのは龍広寺前の坂で、「車坂」と呼ばれていたそうです。
この坂を下ったところに、「藤の花の園」があったというのです。
「高崎の散歩道 第十二集下」を読んでみましょう。
「 | 『藤花園』は通称『藤だな』『馬場の藤』といわれた。 |
高崎藩士で教養人菅谷帰雲の門人馬場若水の家であった。 | |
聖石橋のガソリンスタンドの裏の低地、今は住宅が密集していてその面影はないが、花の頃には茶店も出て、たまご、だんご、ところ天など食しながらの花見客でいっぱいになった。」 |
昭和三十六年(1961)の住宅地図を見ると、そのガソリンスタンドの近くに馬場姓の家もあります。
この辺から見ると、春には「藤花園」の藤の花がきれいに見えたんでしょうね。
「藤花園」の主・馬場若水については、「新編高崎市史」に高崎藩士とあるだけで、詳しいことは書いてありません。
何かに載ってないかと思って探してみると、平成二十二年(2010)発行の「群馬風土記(通巻101号)」に、草津町文化財調査委員の須賀昌五氏が寄稿した「馬場若水の漢詩」中に生い立ちが記載されていました。
それによると、若水は天明二年(1782)高崎藩の飛び地越後国一ノ木戸の郡奉行・馬場喜通(よしみち)の嫡子として生まれ、父の帰任により高崎に来たとあります。
「諱(いみな)は喜登(よしとみ)、字(あざな)は公淵(こうえん)、若水(じゃくすい)と号した。」というので、高崎藩分限帳にその名があるかと思って探したのですが、馬場姓の藩士は何人かいるものの、同じ名は見つかりません。
しかし、昭和三十四年(1959)根岸省三氏編「高崎人物年表」を見ると、また別の記載がありました。
「名は喜澄、通称大助、字公淵、高崎藩臣にして詩、画をよくし・・・」。
通称「大助」とあるので、もういちど分限帳を見直すと、文字は違うのですが馬場大輔という名が何ヵ所かにありました。
この人が若水だとすれば、天保三年(1832)時点の役職は祐筆、石高は50石となっています。
因みに、若水さんはとても温泉好きな人だったようで、頻繁に各地の温泉を訪れては、そこで漢詩を詠んでいます。
いくつか抜き出してみましょう。
浴草津温泉 | ||
独浴温泉間暇辰 | 独り浴す温泉間暇の辰(とき) | |
横伸両足杲天真 | 横に両足を伸ばし天真を杲(あきらか)にす | |
莫言愚痴貧生命 | 愚痴を言う莫(なか)れ貧生に命ぜん | |
保養茲身奉二親 | 保養の茲(こ)の身二親に奉ずるを |
伊香保浴中作 | ||
温泉非療数年痾 | 温泉は数年の痾(やまい)を療(いや)すに非ずや | |
何好遅留繋帰騎 | 何ぞ好んで遅留し帰騎を繋ぐや | |
寄寓送迎皆薄俗 | 寄寓の送迎 みな薄俗 (湯宿の客の対応は薄情である) |
|
去人吝嗇来人利 | 去る人は吝嗇に来る人は利なり (去る客には出し惜しみ、来る客には喜んで迎える) |
歿年は「高崎人物年表」では天保五年(1834)、「馬場若水の漢詩」では天保九年(1838)となっています。
【「藤花園」推定地】