2009年01月21日

小万坂(こまんざか)

若松町「観音通り」聖石橋に向かって下る坂を「車坂」と呼ぶらしい。
「小万坂」の話しに入る前に、ちょっと「車坂」の名前について書いておこう。
昔、この坂に沿って、「損馬堀(そんまぼり)」という名前の深い堀があったそうだ。
この堀は水量が多かったので、水車が4つ回っていたところから、「車坂」と呼んだのだという。

小万坂(こまんざか)

「小万坂」は、「車坂」を下る途中、竜広寺の前を左に入った坂道である。

小万坂(こまんざか)


「小万坂」を降りはじめるとすぐ左の奥に、「小万地蔵」堂がある。

「小万坂」にあるから「小万地蔵」なのか、それとも、「小万地蔵」のある坂だから「小万坂」なのか、よく分からない。

ただ、高崎城の前の和田城時代の古絵図には、すでに「小万坂」という名が記されているというから、おそらく鎌倉時代からそう呼ばれていたのではないかという。

小万坂(こまんざか)堂の中には、沢山の数のお地蔵様が供えられている。

古い物もあり、新しい物もあり、また、着ている服も、定番の赤いものからカラフルなものまで。

今もお地蔵様を大切にお守りし、あるいはお地蔵様に願を掛けに来る人が多いことをうかがわせる。
きっと、霊験あらたかなお地蔵様なのだろう。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」に、「小万坂」「小万地蔵」の由来が書いてあった。
「鎌倉時代、夫妻の回国者があり、この辺で妻が病のため没し
 た。
 その妻の名を『小万』といい、里人はこれを哀れみ
 堂宇を建立して地蔵尊を祀った。」


そうか、「小万」さんのために「小万地蔵」ができて、それから坂を「小万坂」と呼ぶようになったのか。

里人に地蔵尊まで祀ってもらった「小万」さんて、どんな方だったのだろう。
夫妻で旅をしていたというのも、きっと、何か訳があるのだろう。

地名には、歴史や物語がある。
  徒(あだ)や疎か(おろそか)に、
   ひらがな地名に変えてはいけない。


(参考図書:「高崎漫歩」「開化高崎扣帖」)


【小万坂】


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Posted by 迷道院高崎 at 07:07
Comments(2)◆高崎探訪
この記事へのコメント
ここのお地蔵さんは行ってみると何だか心が研ぎ澄まされる様なきがしませんか?
おいらだけかな?
1年くらい前にこの付近にあるお墓の戒名を彫ったことがあります。
確か覚法寺の檀家さんだったような・・・。
このお地蔵さんと覚法寺、何か関係があるのでしょうか?
Posted by 弥乃助  at 2009年01月21日 07:13
>弥乃助さん

おー、さすが弥乃助さん。
ここにも、行ってらっしゃるんですね。
そうです、ここのお地蔵様には、自然と手を合わせたくなる雰囲気があります。

確かに地蔵堂の周囲には、たくさんお墓がありますね。
覚法寺とはずいぶん離れてますけどねー。
Posted by 迷道院高崎  at 2009年01月21日 07:15
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小万坂(こまんざか)
    コメント(2)