若松町の「観音通り」を聖石橋に向かって下る坂を「車坂」と呼ぶらしい。
「小万坂」の話しに入る前に、ちょっと「車坂」の名前について書いておこう。
昔、この坂に沿って、「損馬堀(そんまぼり)」という名前の深い堀があったそうだ。
この堀は水量が多かったので、水車が4つ回っていたところから、「車坂」と呼んだのだという。
←「小万坂」は、「車坂」を下る途中、竜広寺の前を左に入った坂道である。
「小万坂」を降りはじめるとすぐ左の奥に、「小万地蔵」堂がある。
「小万坂」にあるから「小万地蔵」なのか、それとも、「小万地蔵」のある坂だから「小万坂」なのか、よく分からない。
ただ、高崎城の前の和田城時代の古絵図には、すでに「小万坂」という名が記されているというから、おそらく鎌倉時代からそう呼ばれていたのではないかという。
堂の中には、沢山の数のお地蔵様が供えられている。
古い物もあり、新しい物もあり、また、着ている服も、定番の赤いものからカラフルなものまで。
今もお地蔵様を大切にお守りし、あるいはお地蔵様に願を掛けに来る人が多いことをうかがわせる。
きっと、霊験あらたかなお地蔵様なのだろう。
土屋喜英氏著「高崎漫歩」に、「小万坂」「小万地蔵」の由来が書いてあった。
「鎌倉時代、夫妻の回国者があり、この辺で妻が病のため没し
た。
その妻の名を『小万』といい、里人はこれを哀れみ
堂宇を建立して地蔵尊を祀った。」
そうか、「小万」さんのために「小万地蔵」ができて、それから坂を「小万坂」と呼ぶようになったのか。
里人に地蔵尊まで祀ってもらった「小万」さんて、どんな方だったのだろう。
夫妻で旅をしていたというのも、きっと、何か訳があるのだろう。
地名には、歴史や物語がある。
徒(あだ)や疎か(おろそか)に、
ひらがな地名に変えてはいけない。
「小万坂」の話しに入る前に、ちょっと「車坂」の名前について書いておこう。
昔、この坂に沿って、「損馬堀(そんまぼり)」という名前の深い堀があったそうだ。
この堀は水量が多かったので、水車が4つ回っていたところから、「車坂」と呼んだのだという。
←「小万坂」は、「車坂」を下る途中、竜広寺の前を左に入った坂道である。
「小万坂」を降りはじめるとすぐ左の奥に、「小万地蔵」堂がある。
「小万坂」にあるから「小万地蔵」なのか、それとも、「小万地蔵」のある坂だから「小万坂」なのか、よく分からない。
ただ、高崎城の前の和田城時代の古絵図には、すでに「小万坂」という名が記されているというから、おそらく鎌倉時代からそう呼ばれていたのではないかという。
堂の中には、沢山の数のお地蔵様が供えられている。
古い物もあり、新しい物もあり、また、着ている服も、定番の赤いものからカラフルなものまで。
今もお地蔵様を大切にお守りし、あるいはお地蔵様に願を掛けに来る人が多いことをうかがわせる。
きっと、霊験あらたかなお地蔵様なのだろう。
土屋喜英氏著「高崎漫歩」に、「小万坂」「小万地蔵」の由来が書いてあった。
「鎌倉時代、夫妻の回国者があり、この辺で妻が病のため没し
た。
その妻の名を『小万』といい、里人はこれを哀れみ
堂宇を建立して地蔵尊を祀った。」
そうか、「小万」さんのために「小万地蔵」ができて、それから坂を「小万坂」と呼ぶようになったのか。
里人に地蔵尊まで祀ってもらった「小万」さんて、どんな方だったのだろう。
夫妻で旅をしていたというのも、きっと、何か訳があるのだろう。
地名には、歴史や物語がある。
徒(あだ)や疎か(おろそか)に、
ひらがな地名に変えてはいけない。
(参考図書:「高崎漫歩」「開化高崎扣帖」)
【小万坂】