かの駿河大納言・徳川忠長卿、大信寺にあるお墓は高崎市の指定史跡になっています。
当ブログでも、13年前に記事にしました。
◇殿様に縁のある日(その壱)
で、今回はその忠長卿の奥さんのお墓の話です。
大正十一年(1922)の「上毛及上毛人 第64号」に、「駿河大納言殿と五人のお局」という一文が掲載されています。
そして過去帳では、五人の御局の戒名と没年月が次のように記されているそうです。
忠長卿が自刃したのは寛永十年(1633)ですから、没後25年まで寄り添いお世話をしていた訳です。
そんな五人の御局の墓の所在が不明というんですから、何とも不思議なことです。
ところがその内一人の供養塔が、上中居町の民家に存在しているのです。
ただ、「神女清月弥陀院内儀供養塔」と刻まれており、「承應三甲午歳春三月廿一日逝去」となっていて、前述の過去帳とは少し異なっています。
しかし、裏面には五人の御局の一人の戒名「松譽春貞大姉」が刻まれています。
没年も「承応三甲午歳秋九月廿六日逝去」となっていて過去帳とも符合します。
これを見ると、「松譽春貞大姉」は慶長五年(1600)に上野国小幡城主・小田(織田?)信良の娘として生まれ、寛永二年(1625)に西上州中居西屋敷に移住し云々とありますが、いまひとつよく分かりません。
昭和六十四年(1989)に郷土誌「上州路」の編集部が供養塔のある吉井家を訪ねて、「忠長卿の奥方庚子(かね)の子孫を訪ねる」という記事を書いています。
一部抜粋してみましょう。
これによると、庚子(かのえね)年生まれの「庚子(かね)」は二十四歳の時、十八歳の忠長卿の正妻となり、長七郎という子を産みながら、その子を連れて中居の吉井本家に移り住んだということなんですね。
何故なんでしょう。
世の定説では、忠長卿の正室は織田信良の娘・昌子とされており、わずか十歳で十七歳の忠長卿に嫁いだことになっています。
しかし吉井本家に伝わる話では、同じ織田信良の娘・庚子が六歳年下の忠長卿の正室となり、子をもうけたとなっている訳です。
この辺りに、庚子母子を忠長卿の元から離さなければならなかった理由がありそうです。
そして、庚子母子を生地の小幡に戻す訳にもいかずに、中居へ移住させたのでしょう。
それにしても、なぜ吉井本家だったのでしょうか。
吉井本家については、「上州路」誌にこう書かれています。
庚子の生地は、甘楽(韓)の小幡でした。
そして吉井本家の祖先は、辛科(韓級)の吉井連です。
いわば同族で、双方を繋ぐ有力者がいたのかも知れません。
そんな人物が、庚子を吉井本家に密かに預けた(匿った)ということなのではないでしょうか。
さて、忠長卿が高崎城に幽閉されることになって、庚子母子は愛する夫・父に再会することとなります。
再び「上州路」誌からです。
忠長卿が自刃したと知った庚子は大信寺へ行き、他の御局と共に墓守りのお世話をさせてもらったのではないでしょうか。
そう考えれば、五人の御局の戒名の中で唯一院殿号を持たないというのも、納得できそうな気がします。
謎の多い忠長卿と奥方の話ですが、なかなか興味深いものがあります。
次回は、「逆修碑」があるという「極楽寺」へ行ってみることに致しましょう。
当ブログでも、13年前に記事にしました。
◇殿様に縁のある日(その壱)
で、今回はその忠長卿の奥さんのお墓の話です。
大正十一年(1922)の「上毛及上毛人 第64号」に、「駿河大納言殿と五人のお局」という一文が掲載されています。
「 | 過去帳に依て調査すれば、大納言殿御附の御局五人あり、皆其の卒去の年月日と法名とが記しあり、(略) |
傳説にては大信寺墓地中に、此の五人の御局の墓石も有りたるなれど、年所を經るまゝに不明となりたるなりとの事なり、 | |
而して此のお局衆は生存中は墓側の庵室に住居し、墓所掃除、香華の供進、朝夕の看經回向に一心他念なく、故君に仕へ奉りしなりと云、故君の御身の上に如何なる變化あるも、其れは其れとして自己は志操を變ぜず依然故君に侍して一生を終りたる志操の堅實なりし點は、大に賞賛すべき事なり、 | |
然るに此の五人の御局が一生故君の墓側に侍し、屍を此の寺中に埋めし事は、今日迄世間に知られざる爲め、此の可憐の御局五人の靈位に對し、香華を手向けるものなかりしは、誠に氣の毒の至りである」 |
そして過去帳では、五人の御局の戒名と没年月が次のように記されているそうです。
淸林院殿明岳貞昌大姉 | 寛永十五年(1638)戊寅六月 |
松譽春貞大姉 | 承應三年(1654)九月 |
昌淸院殿心譽妙安大姉 | 明暦元(1655)己未年七月 |
玉蓮院殿明譽周光比丘尼 | 明暦三(1657)丁酉天三月 |
寶樹院殿香譽淸心大姉 | 万治元(1658)戊戌年正月 |
忠長卿が自刃したのは寛永十年(1633)ですから、没後25年まで寄り添いお世話をしていた訳です。
そんな五人の御局の墓の所在が不明というんですから、何とも不思議なことです。
ところがその内一人の供養塔が、上中居町の民家に存在しているのです。
ただ、「神女清月弥陀院内儀供養塔」と刻まれており、「承應三甲午歳春三月廿一日逝去」となっていて、前述の過去帳とは少し異なっています。
しかし、裏面には五人の御局の一人の戒名「松譽春貞大姉」が刻まれています。
没年も「承応三甲午歳秋九月廿六日逝去」となっていて過去帳とも符合します。
これを見ると、「松譽春貞大姉」は慶長五年(1600)に上野国小幡城主・小田(織田?)信良の娘として生まれ、寛永二年(1625)に西上州中居西屋敷に移住し云々とありますが、いまひとつよく分かりません。
昭和六十四年(1989)に郷土誌「上州路」の編集部が供養塔のある吉井家を訪ねて、「忠長卿の奥方庚子(かね)の子孫を訪ねる」という記事を書いています。
一部抜粋してみましょう。
「 | この家にある「西上州中居西屋敷吉井本家系譜」によると、元和九年(1623)忠長は信州小諸二十二萬石、十八歳で、庚子(かね)二十四歳と婚す。 |
翌寛永元年(1624)忠長は駿河遠江を加封され、五十五萬石の太守となり駿河に住む。 | |
正妻お庚子の方は一子長七郎を産み、西上州古領千石中居西屋敷吉井本家現在地に住す。(略) | |
そして、翌年の寛永二年に、お庚子の方は当家のすぐ近くにある菩提寺、極楽寺の塋域内に、逆修碑を建てている。」 |
これによると、庚子(かのえね)年生まれの「庚子(かね)」は二十四歳の時、十八歳の忠長卿の正妻となり、長七郎という子を産みながら、その子を連れて中居の吉井本家に移り住んだということなんですね。
何故なんでしょう。
世の定説では、忠長卿の正室は織田信良の娘・昌子とされており、わずか十歳で十七歳の忠長卿に嫁いだことになっています。
しかし吉井本家に伝わる話では、同じ織田信良の娘・庚子が六歳年下の忠長卿の正室となり、子をもうけたとなっている訳です。
この辺りに、庚子母子を忠長卿の元から離さなければならなかった理由がありそうです。
そして、庚子母子を生地の小幡に戻す訳にもいかずに、中居へ移住させたのでしょう。
それにしても、なぜ吉井本家だったのでしょうか。
吉井本家については、「上州路」誌にこう書かれています。
「 | 高崎駅東口から二キロほど東へ行った中居町。 この辺りは、吉井姓の家がたくさんある。 |
「続日本紀」に出てくる「天平神護二年(766)上野国に在る新羅人子午足等一百九十三人に姓吉井連を賜う」とあるが、この吉井氏の後裔が高崎市の中居へ移住したと聞いたことがある。」 |
庚子の生地は、甘楽(韓)の小幡でした。
そして吉井本家の祖先は、辛科(韓級)の吉井連です。
いわば同族で、双方を繋ぐ有力者がいたのかも知れません。
そんな人物が、庚子を吉井本家に密かに預けた(匿った)ということなのではないでしょうか。
さて、忠長卿が高崎城に幽閉されることになって、庚子母子は愛する夫・父に再会することとなります。
再び「上州路」誌からです。
「 | 逆修碑建立から七年後の寛永九年、忠長は妻子の住む高崎へ移される。(略) |
高崎城へ入る前に、・・・・・・倉賀野宿永泉寺前を通って吉井本家前を通り、妻子と最後の御対面をしたと、これは、代々語りつがれてきたことだと書かれている。」 |
忠長卿が自刃したと知った庚子は大信寺へ行き、他の御局と共に墓守りのお世話をさせてもらったのではないでしょうか。
そう考えれば、五人の御局の戒名の中で唯一院殿号を持たないというのも、納得できそうな気がします。
謎の多い忠長卿と奥方の話ですが、なかなか興味深いものがあります。
次回は、「逆修碑」があるという「極楽寺」へ行ってみることに致しましょう。