駿河大納言・徳川忠長卿の正室だった庚子(かね)が、高崎の中居に移り住んで建てたという「逆修碑」が「極楽寺」にあるというので見に行ってみました。
「極楽寺」は、ブログ駆け出しの頃記事にしています。
◇なきんぞう
「逆修」(ぎゃくしゅ・ぎゃくしゅう)とは、「生前に逆(あらかじ)め死後の菩提に資すべき善根功徳(くどく)を修すること」だそうで、そのために建てるのが「逆修塔」や「逆修碑」なんだそうです。
庚子が建立したと伝わる「逆修碑」がこれらしいのですが、「碑」というより「石祠」ですよね。
吉井文右衛門家の立派な石塔があります。
その左側面には、はっきりと「徳川忠長 正室 俗名吉井庚子 五十五歳」と刻まれています。
この石塔は、昭和三十九年(1964)に建てられています。
傍らには、葵の御紋が付く「累代霊位」の石板が建っており、その中に興味深い名前が刻まれています。
松平長七郎と、その子・松平長松丸です。
前回の記事に出てくる「西上州中居西屋敷吉井本家系譜」には、忠長卿との間に産まれた長七郎を連れて、庚子は中居に移り住んできたと書かれています。
田島武夫氏は、その著書「高崎の名所と伝説」で長七郎を取り上げています。
この、町人の娘に産ませた子というのが、吉井本家の累代霊位に刻まれている松平長松丸です。
鷹司家に入って信平となった長松丸は、第四代将軍徳川家綱の配慮により、家光の叔父である紀州藩主徳川頼宣の娘・松姫を娶り、翌承応三年(1654)には従四位下・左近衛少将に任じられ、紀州徳川家の縁者として松平の名字を称することを許されて、鷹司松平家の祖となります。
そして信平の孫・信清は、上野吉井藩の初代藩主となるのです。
旧吉井藩陣屋跡に、「福徳因孝」という吉井藩の歴史を刻んだ大きな碑が建っています。
そこには、「吉井氏の先は信平で鷹司氏より出る。実は駿河大納言の子である。」と刻まれています。
あれ?
長松丸ではなく長七郎が信平?
大正六年(1917)に旧吉井藩臣・中村忠誠の撰文です。
そんな訳で、忠長卿正室庚子に始まり、吉井本家から、吉井藩につながる話となりました。
史実ではないという向きもありますが、長い間架空上の話・人物とされた「トロイの遺跡」や「山本勘助」も、年月を経て史実と認められています。
いつの日か、確たる証拠が発見されることを期待しております。
「極楽寺」は、ブログ駆け出しの頃記事にしています。
◇なきんぞう
「逆修」(ぎゃくしゅ・ぎゃくしゅう)とは、「生前に逆(あらかじ)め死後の菩提に資すべき善根功徳(くどく)を修すること」だそうで、そのために建てるのが「逆修塔」や「逆修碑」なんだそうです。
庚子が建立したと伝わる「逆修碑」がこれらしいのですが、「碑」というより「石祠」ですよね。
吉井文右衛門家の立派な石塔があります。
その左側面には、はっきりと「徳川忠長 正室 俗名吉井庚子 五十五歳」と刻まれています。
この石塔は、昭和三十九年(1964)に建てられています。
傍らには、葵の御紋が付く「累代霊位」の石板が建っており、その中に興味深い名前が刻まれています。
松平長七郎と、その子・松平長松丸です。
前回の記事に出てくる「西上州中居西屋敷吉井本家系譜」には、忠長卿との間に産まれた長七郎を連れて、庚子は中居に移り住んできたと書かれています。
田島武夫氏は、その著書「高崎の名所と伝説」で長七郎を取り上げています。
「 | 松平長七郎などという人物は講談がつくりあげた、架空の人物だと思っている人が多い。 事実は小説よりも奇なりということもある。 |
放浪中、旅の娘の危難を救って、この娘と同棲し、将軍家ゆかりの人間が、町人の娘に子を産ませたということは泰平の時代の大きな話題になった。 | |
講談師見て来たようなウソをいい、というが、その子が成長して鷹司信平(たかつかさ・のぶひら)になったということは厳然たる事実で、鷹司関白信房の猶子としたのである。」 |
鷹司家に入って信平となった長松丸は、第四代将軍徳川家綱の配慮により、家光の叔父である紀州藩主徳川頼宣の娘・松姫を娶り、翌承応三年(1654)には従四位下・左近衛少将に任じられ、紀州徳川家の縁者として松平の名字を称することを許されて、鷹司松平家の祖となります。
そして信平の孫・信清は、上野吉井藩の初代藩主となるのです。
旧吉井藩陣屋跡に、「福徳因孝」という吉井藩の歴史を刻んだ大きな碑が建っています。
そこには、「吉井氏の先は信平で鷹司氏より出る。実は駿河大納言の子である。」と刻まれています。
あれ?
長松丸ではなく長七郎が信平?
大正六年(1917)に旧吉井藩臣・中村忠誠の撰文です。
そんな訳で、忠長卿正室庚子に始まり、吉井本家から、吉井藩につながる話となりました。
史実ではないという向きもありますが、長い間架空上の話・人物とされた「トロイの遺跡」や「山本勘助」も、年月を経て史実と認められています。
いつの日か、確たる証拠が発見されることを期待しております。
【極楽寺】
【福徳因孝碑】