2009年06月19日

「次」か「治」か?

「次」か「治」か?高崎-伊勢崎線の南大類西交差点の角に、一本の石柱が立っています。
石柱には「義人 五万石 総代 丸茂元次郎 入口」と刻まれています。

高崎五万石騒動の大総代は、柴崎村・高井喜三郎、下中居村・佐藤三喜蔵、上小塙村・小嶋文次郎の三人でしたが、喜三郎三喜蔵が斬首され、文次郎も入牢の身となったことで、第二大総代の一人に推挙されたのが上中居村の丸茂元次郎でした。

元次郎は、二度にわたって減納願書を東京の民部省に提出することを試みますが、一度は上京の途中川越町で捕えられて十日間留置されます。
二度目は願書の提出には成功したものの、身柄は高崎藩に引き渡されてしまいます。
そして、翌、明治四年(1871)、徒刑十年を言い渡されて岩鼻の牢獄で服役することになります。

元次郎と行動を共にした小塙村・山田勝弥も同じ刑期でしたが、憐れ服役中に獄死しています。
元次郎は幸いにも、無事刑期(恩赦で8年になったともいわれています)を満了し、悠々自適に余生を過ごし、天寿を全うすることができました。

「次」か「治」か?非業の死を遂げなかったからか、元次郎の墓は、大々的に史跡扱いされている他の大総代の墓と異なり、上中居の丸茂家の墓地にひっそりと立っています。
それと知る人も少ないであろうことは、少し寂しい気もします。

ところで、グンブロ仲間の弥乃助さんから、先日こんなコメントを頂きました。
「今日、戒名を彫り終わった過去碑を取り付けに丸茂家の墓地に行きました。
で、丸茂元次郎らしきお墓を見つけました。
でも、元郎となっていましたが・・・。」

早速確認に行ってみると、確かに墓石には「丸茂元郎」と刻まれています。
ほとんどの書籍では、と書いてあるのです。
前述の、交差点角の石柱も元次郎です。
果たしてこの墓は、本当に五万石騒動の丸茂元次郎の墓なのか?
はたまた、書籍が、あるいは墓石の字が間違いなのか?
追跡をしてみることにしました。

まずは、元次郎の生家を見つける必要がありそうです。
しかし、上中居には丸茂姓が実に多いのです。
そこで、墓地の近くのお蕎麦屋さんで、聞いてみました。
すると何と!「あー、もとじろうさんとこね。ここだよ。」と住宅地図を見せて教えてくれました。
住宅地図にちゃんと「丸茂元治郎」と書いてある家があるのです。
「あのー、明治に亡くなってる方なんですけど・・・」

でも、きっと元次郎と関係のある家だと思い、訪ねてみました。
奥様が出てきて、「あー、ひいひいじいちゃんだね。」
「だけど、字は分かんないね。前の家が本家だから聞いてごらん。」


ご本家を訪ねてみました。
「墓は間違いなく、うちのだね。」
「明治の治だと思うよ。お墓の字が間違ってるわけないから。」
「極楽寺に丸茂家の過去帳があるから、それをみれば確かだよ。」


極楽寺を訪ねてみました。
「過去帳じゃわからないね、言われた通り書くだけだから。」

またご本家に伺って「もし、後で分かったら教えてください。」と名刺をお渡ししておきました。
ということで、「次」「治」かという謎はベールに包まれたままです。
もしかすると弥乃助さん、世紀の大発見になるかもしれませんね。

明日は、高崎市歴史民俗資料館主催の「五万石騒動史跡巡り 中居地区編」に参加してきます。
ちょっと、質問しちゃおうかな?
それとも、世紀の大発見まで黙っていようかな?

【丸茂元次郎入口の石柱】

【丸茂元治郎の墓】



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Posted by 迷道院高崎 at 23:16
Comments(27)高崎五万石騒動
この記事へのコメント
九蔵町大雲寺に武田信玄の軍師山本勘助の子孫の墓があるので、宣伝して下さい。墓には「菅助」とありますが、「次」「治」と同じく、文字が違っても一向に差し支えありません。甲陽軍鑑が「勘」を使ったので、その後の書物が「勘」を使用しているのです。山本家は山城国淀藩に仕えたが、改易のため浪人となり、大河内家の祖松平信興の土浦藩に就職しました。近く、群馬の森の県立博物館の黒田館長が、館長講座で高崎藩士山本家の由緒を発表します。
Posted by 中村茂  at 2009年12月03日 21:16
>中村茂様

五万石騒動史跡巡りで、ご案内をして頂いた中村先生でしょうか?
その節は、大変お世話になりました。

素人が文字の違いを大発見したような気になって、お恥ずかしい限りです(^^ゞ

武田信玄がこの近くまで攻め入ったという話は聞いていましたが、その軍師・山本勘助の子孫のお墓が大雲寺にあるとは!
ぜひ、調べに行ってきます。
黒田館長のお話も、楽しみです!
いつ講座があるのか、見逃さないようにしないといけませんね。

貴重な情報、ありがとうございました!
これからも、よろしくご指導ください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年12月03日 22:07
あんときの中村です。
山本勘助となると日本史級の人物なので、市民にどう紹介しようかと思っています。タカタイがいいかな?。
ネットで「山本勘助」を検索すると、安中で山本勘助実在を示す史料発見というのが話題になっています。高崎藩士山本家から流出したものです。
館長講座は12月分は締め切ったようです。3月に2回目があります。
Posted by 中村 茂  at 2009年12月05日 14:11
>中村茂様

やはり先生でしたか!
コメントを頂き、光栄です!

市民への情報発信は、タカタイも良いでしょうし、当ブログ提供元の「ちいきしんぶん」も効果大だと思います。
及ばずながら、小生のブログでもご協力させて頂きます。

昨日、県立博物館に電話したのですが、やはり申し込み期限を過ぎていたことと、申込者多数で2回に分けても尚、満席ということで、12月の講座は残念ながら諦めました。
3月には是非と思い、これから葉書を出してみます。
ただ、昔からクジ運が悪いものですから、心配ですが・・・。

それにしても、地域の歴史に関心を持っている方は多いんですね。
高崎の観光に大きな力になるのではないかと思います。
何とか、市観光課に働きかけられないものでしょうか。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年12月05日 18:56
はじめまして。
高崎出身の丸茂と申します。
googleの検索でおじゃましました。

現在生きている丸茂 元治郎は私の父です。
実家まで確かめに行っていただき恐れいります。

実は、「元治郎」か「元次郎」かは、私も子供の頃からの疑問でした。
先般帰省した際、親戚で石工の人に聞いてみました。が、明確にどちらだったか忘れてしまいました。
今週末、再度帰省しますので、もう一度聞いてみます。
国道沿いの石碑を彫ったと言っていました。
(でも、今のうっすらした記憶では元治郎→元次郎にいつの間にかなっていたと・・・思います)

また、ここで、ご報告致します。
Posted by 丸茂 博  at 2010年08月03日 21:57
>丸茂博様

これはまた元治郎氏の極近しい方からのコメント、ありがとうございます!

実は、やはりこの記事がご縁でお付き合いをして頂いている「いちじん」さんという方がいます。
この方の母方のお祖父さんが元治郎氏だということなので、たぶんご存知の方と思います。

その方は、戸籍まで調べているのですが、そこに元治郎、元次郎両方の文字が記載されているのを拝見しました。
いちじんさんの推察では、元治郎氏は長男なので、「次」は使わないのではないかということです。

ですので、博様の仰る「元治郎→元次郎にいつの間にかなっていた」というのは、当っているかもしれません。

それにしても、インターネットというのはすごいつながりを作ってくれる道具ですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月03日 22:30
先般、別のところで書いたようにこの週末で帰省し母や本家のおばさんにヒヤリングしお墓にも確認に行きました。
「確認の上」と思ったのですが確認に手間取りそうなので中間報告します。


その結果の判った事をお知らせします。

まず、「次」か「治」か?と、言うことですが、「治」であると言うことが今回の見解です。
本家に来る役所からの文書で時々、元治郎の名前の入ったものが来るそうです。

では、なぜ「次」になったのか?と、言うことですが、その確認ができていないのです。

仮説1
国道添いの石碑を作った際間違え、公にある物なのでそれが正しいと広まって行った。(今回、この碑の作られた経緯も分かりました)
(江木町の義人堂では「治」なのでなおさら「?」ですが)

仮説2
明治時代発行の五万石騒動で間違われたため、そのまま広まった。
(これの復刻版が家に有り確認しましたら「次」となって居ましたが、原書を確認したいのですが、諏訪神社に有るのを家に帰って昨夜知ったので諏訪神社に電話したのですが出ないので未確認です。)
(しばらくしたら電話してみますがこの件をご協力頂け無いでしょうか)


なお、今回、みんなの話や過去碑から家系図を作って判ったのですが、元治郎は私の父の「ひぃひぃじいさん」では無く「ひぃじいさん」で有る事が分かりました。
また、「いちじん」さんもどなたなのかも母からすぐ分かりました。
私は直接存じ上げない方ですが宜しくお伝えください。
Posted by 丸茂 博  at 2010年08月09日 11:19
>丸茂博様

やはり、「治」説が有力ですか。

「次」になったのは、仮説2ではないかと私は思っています。
私が図書館で見た、細野格城の「五萬石騒動」は、原本の内の一冊だと思いますので、そこで「次」が使われているのは間違いありません。

いろいろと情報を頂き、本当にありがとうございます。
お身内の方でさえ謎のままというのが、実に興味深いと思いました。

また何か分かったことがありましたら、お教えください。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月09日 22:52
原本をご覧になられているのですか。
では、やはり細野氏が(当時の習慣で字には注力せず)記載したために以後の表記に影響しているのですね。

また、先程記載忘れましたが、国道沿いの碑は、昭和33年頃、元治郎の甥が婿として丸茂家を離れる際に記念として残したそうです。

しかし、昭和38年に建てられた義人堂では、「治」となっており、(ある意味)興味深いです。

迷道院高崎さんも書かれていますが、本人の墓も現存し、「元治郎」となっていることなどは、今回初めて確認し、その上下の家系の墓も確認出来たのは初めての経験でした。(そんなふうにして墓を見たことが有りませんでした)


今回の帰省は、ミステリーを体験しているようで大変興味深く、また、身内のつながりや等を確認する、良い帰省でした。

このような機会を与えてくださった迷道院高崎さんに感謝致します。
Posted by 丸茂 博  at 2010年08月09日 23:34
週末の高崎祭りの、山車のお囃子を聴きながら(日曜は午後ずっと家の中までお囃子が響いていました)、江戸~明治の頃と現在では、色々な状況が全く異なってしまっているだろうと考えていました。

今の山車を引く人、お囃子を演奏する子どもたちと、昔の、娯楽も情報(テレビ、雑誌、新聞)も無い時代の人たちは、何をどう考えて暑い中、一日中外にいるのだろう?とか・・・。

で、何を思ったかと言いますと、明治初年の頃の日本、それも農民を中心とした階層の識字率です。
平仮名の識字率はある程度あったかもしれませんが、漢字の識字率となるとどうだったのでしょうか?
今は、名前は当然「漢字」でイメージされますが、当時は「ひらがな」でイメージされていたのではないか?
だから、「治」になったり「次」になったりしたのではないか?と・・・。

岩鼻監獄に投獄されていたそうですから、その時の入牢記録など残っていないのでしょうか?
そっちの方が正確な様な気もしますが、如何でしょう?
Posted by キレイズキ  at 2010年08月09日 23:57
>丸茂博様

いやいや、こちらこそ身内の方の貴重な情報によって調査不足を補って頂き、感謝しております。

私など、先祖のことはほとんど遡れません。
その点、丸茂様のご先祖は歴史上の人物ということで、資料も残っており、羨ましいです。

今回のことで、お知り合いになれて光栄です。
これからも宜しくお願い致します。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月10日 07:58
>キレイズキさん

確かに、一般農民の識字率は低かったかも知れませんね。

でも、五万石騒動の連判状を見ると、名前は全て漢字で書かれていて、筆跡からみて一人の人間が書いたものではなく、自署であろうと言われています

ただ残念なのは、上中居村の連判状が残っていないことです。
元治郎自筆の文書が残っていれば、簡単に解決する話なんですが、それがないというのも、何か理由があるような気がします。

ま、謎は謎として残しておくのもまた、いいものかと。

入牢記録は、まったく気が付きませんでした。
前橋刑務所に残ってるかも知れませんが・・・。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年08月10日 08:24
ご無沙汰しております。
ご連絡が遅くなりましたが、4月より実家にて同居しております。
「元治郎」もだいぶ歳をとりまして、今後急に同居することになると、中学生の次男の進路や様々な事を考慮して今が最後のチャンスと思い、決意いたしました。

遅まきながらごあいさつ申し上げます。
今後ともよろしくお願い致します。
Posted by 丸茂 博  at 2011年07月05日 00:05
>丸茂博様

お久しぶりです!

そうでしたか。
ご実家をお訪ねした時のことが、思い出されます。
ご家族の皆様によろしくお伝えください。

その内にお会いする機会も訪れるかもしれませんね。
よろしくお願いいたします。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2011年07月05日 07:56
ご無沙汰しております。
昨日、(2代目)丸茂元治郎が亡くなりました。
Posted by 丸茂博  at 2014年11月15日 23:40
>丸茂博様

お久しぶりでした。
そうでしたか、元治郎さんが…。
ご冥福をお祈り申し上げます。
ご連絡ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年11月16日 14:07
はじめまして、丸茂と申します。
父の紹介で拝見させて頂きました。

何度か、こちらのコメント欄に書き込みさせて頂いている丸茂 博は私の父です。

この度は、祖父への弔意ありがとうございます。

先日、営まれた祖父の葬儀の際、集まった親戚から
「(初代)元治郎は「次」なのか「治」なのかという問題に関連あると思われる(二代目)元治郎の話」を聞けたので、
こちらにご報告させて頂きます。



1)(初代)元治郎は石碑にもあるように一族の間でも義人と認識されてるのですが、
同じ名を持つ祖父は末っ子です。
「なぜ末っ子に、そんな名前をつけたのか?つけるなら長男だろう」と疑問に思っていました。
そこで親戚に聞いてみたのですが、結局、末っ子に名付けた理由は、よく分かりませんでした。
しかし、名付け親が、どうも「水吉『らしい』」ということが分かりました
(証言してくれた親戚も、「確証がある」という雰囲気ではありませんでしたが…)
この「水吉」という人物は、父(博)のまとめた家系図によると、
「(初代)元治郎の次男」に当たる人物で、(二代目)元治郎が生まれた際にも存命中だった人物です。(水吉は(二代目)元治郎の祖父に当たる)

息子が実の父親の名前の漢字を間違えるだろうか?という事



2)(二代目)元治郎の妻が(私の祖母)嫁ぐ際に義父母から
「百姓一揆のリーダーをやるような人の名を継いでいるので強情だとは思うが、よろしく頼む」と言った趣旨の事を言われ嫁いだそうです。
つまり、

(二代目)元治郎の両親もやはり義人の名だとわかって名付けた、その際、漢字をあやふやに名付けるだろうか?と言う事



1)と2)より、「(二代目)元治郎が「治」なので(初代)元治郎は「治」であろう」という情報です。
確証がある情報ではありませんが、中々面白いと思い、ご報告させて頂きました。
長文失礼しました。
Posted by 丸茂 浩彰  at 2014年11月21日 22:46
>丸茂 浩彰様

これはこれは、貴重な方から貴重なコメントを頂戴いたしました。
ありがとうございます。

お身内の方でなければ知りえない情報で、本当に貴重なお話だと思います。
私如き者にお話しいただき、感謝感激でございます。
元治郎様に、有難いご縁を頂戴いたしました。
改めまして、ご冥福をお祈り申し上げます。

合掌。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2014年11月22日 17:38
私にも、江戸~明治~大正にかけ、「半次」と云う名前の先祖がおりました。 この「半次」を「初代・半次」と呼び、二代目を襲名した家督相続人である養嗣子も、当初は「半次」の名でした。
しかしこれが明治中期以降、二代目は「半治」となります。
それ以後も「半次」の時もあれば「半治」の時もあり、入り乱れておりました。
大正~昭和年間でも、「宗次」⇒「宗治」となった例も見受けられます。(これは一代限りの名前です)
江戸期の名前によく充てられた「次」という漢字ですが、近年に近づくにつれ「治」で現わすようになった例が、多く見受けられました。 ※明治5年に始まった戸籍制度や、明治21年の土地台帳の政策による関係があるのかと思料した事もございますが、不明のままです。

現代と異なり、江戸時代の名称は、「音」や「響き」が重視されていた、という説を目にしたことがございます。
文字の普及と関連しているのかも知れません。
文字(漢字)は、添え物のような印象でした。
同一人物でも「弥惣吉(やそうきち)」=「八十吉(やそきち)」
地名なども「下藤(しもとう)」が「下遠(しもとう)」に変化するなど、読み方が同じであれば、節操のない傾向が見受けられました。
Posted by 老農 船津伝次平  at 2021年04月16日 07:32
昔は「呼ぶ名前があり、文字が充てられた」

現代は「既に正確な文字が一般に普及しているので、呼ぶ名前も正確にある」

文字の普及によって、次第に文字の正確さの方が優勢になった印象もあります。
現在の漢字一字が、昔は異体字も含めて何種類も存在することからも、字に関しては大らかだったように思えるのです。
Posted by 老農 船津伝治平  at 2021年04月16日 08:14
>老農 船津伝治平さん

伝治平さんのお身内にもいらっしゃったんですね。

二宮金次郎も、本人は金治郎と署名していたようですから、やはり音が同じなら文字はそれほど気にしなかったんでしょうね。

詳しいお話、ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2021年04月16日 20:05
参考
昭和3年5月15日 発行
五十嵐伊十郎著
『丸茂元治郎翁傳』 活字印刷

昭和初期(推測) 発行
中里東雲作詞
琵琶『義民元治郎』 ガリ版印刷

構想
この琵琶歌『義民元治郎』を蘇らせたいと思っています。その節はよろしくお願い申し上げます。
Posted by いちじん  at 2021年04月22日 00:38
>いちじんさん

すごいことですよねぇ!
掘り起こすと、いろいろな新発見があるものですね。
琵琶歌の復活、期待しています。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2021年04月22日 18:50
はじめまして。
迷道院高崎さんのブログは以前より拝見しておりますが、非常に勉強になり感銘を受けた者の一人です。

実はこのブログを読んでから私なりに元治郎の名前について調べてみまして、その結果を記録してみました。

もしよろしければ下記にリンクを貼らせていただきますので、よろしかったら目を通していただけば幸いです。(誠に勝手で申し訳ございません。コメントごと削除していただいても結構です。)

https://takasakiaoi.blog.fc2.com/blog-entry-1.html


これからも色々勉強させていただきたいと思います。
Posted by とお  at 2024年02月29日 12:23
>とお さん

ありがたいコメントです。
とおさんのブログも拝読いたしました。
実に多方面の調査に基づく素晴らしいご考察で、感服いたしました。
拙ブログへのリンク、光栄です。
私の記事というよりも、皆様からのコメントの方が貴重な情報ですのでありがたく思います。
よろしくお願い申し上げます。

ありがとうございました。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2024年02月29日 19:45
迷道院高崎様
私の拙いブログを読んでくださり光栄です。また、勝手にリンクを貼ったりと色々申し訳ございませんでした。私のあのブログはあのままだときっと誰の目にもとまらずに埋もれていたと思います。感謝申し上げます。
Posted by とお  at 2024年03月01日 14:06
>とお さん

ブログも、継続が大切かと思います。
どうぞ、ジャンル問わず投稿をお続けいただきますよう。
ご健闘をお祈り申し上げます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2024年03月01日 19:51
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