古地図によって、城内にあった「富士浅間(せんげん)山」という古墳が、鎌倉道を辿る基準になりそうです。
この古墳、高崎城三の丸の土塁にその面影を留めています。
市庁舎の前を高崎公園側に抜ける切通しの両側が、他の土塁に比べて一段と高くなっています。
この部分が「富士浅間山古墳跡」です。
ただ、鎌倉道はここよりもっと西で北に曲っていたと思われます。
100mほど西の土塁に少し窪んだ場所があるので、この辺ではなかったかと勝手に想像しています。
では、鎌倉を目指して(?)歩き始めることに致しましょう。
光明寺は、至徳二年(1385)の開山といいますから、鎌倉時代(1192-1333)にはまだ無かったということになります。
ということは、それまで鎌倉道はこんなにくねくねと曲がっていなかったんでしょうね。
このお寺、最初は安楽院遍照坊という名前だったそうですから、たぶん小さな寺だったのでしょう。
ところが慶長年間(1604頃)、時の住職が、第二代高崎藩主・酒井家次の嫡子・忠勝の病気を、秘法を以って治癒させたのだそうです。
その褒美として家次は、日天子・月天子を安置した宮殿(くうでん)を建立し、仏殿を修復して、寺の名前も日宮山(ひのみやさん)光明寺と名付けたといいます。
明治初期、この辺りは「明石町」(あかしちょう)という町名でしたが、「明」は光明寺の「明」。
そして「石」は、近くにある和田三石のひとつ「方石」(かくいし)の「石」だそうです。
「方石」は別名「化け石」ともいい、源頼朝の馬が化け物と見間違えて、驚いて蹴った石だという伝説が残っています。
いかにも、鎌倉道らしい伝説ではないでしょうか。
本堂の左は、もと古墳だったそうで、愛染明王を安置した「愛染堂」が建っています。
ここにも面白い話が伝わっていて、
安政二年(1855)の大地震で家業が衰退して困っていた、江戸下谷の商人・市野屋善次郎という人が夢の中で、お告げを受けました。
「東方に光明が輝き、仏像あり、上州高崎光明寺という。」
善次郎は、すぐ光明寺を訪ねて、荒れ果てていた地蔵堂を再建したところ、再び家業が繁栄したということです。
明治末期に作られた「高崎唱歌」に、
♪若松町に光明寺
夢に名を得し愛染堂♪
とあるのは、このことだそうです。
光明寺の墓地には、「心の燈台」内村鑑三が建てた、内村家五代の墓があります。
しかし、これを建てた内村鑑三自身は、ここに眠っていません。
クリスチャンだった内村鑑三の墓は、宗旨・宗派を問わない東京多摩霊園にあります。
まだいくらも歩いてないのに、こんなに長くなってしまいました。
続きは、また次回に致しましょう。
この古墳、高崎城三の丸の土塁にその面影を留めています。
市庁舎の前を高崎公園側に抜ける切通しの両側が、他の土塁に比べて一段と高くなっています。
この部分が「富士浅間山古墳跡」です。
ただ、鎌倉道はここよりもっと西で北に曲っていたと思われます。
100mほど西の土塁に少し窪んだ場所があるので、この辺ではなかったかと勝手に想像しています。
では、鎌倉を目指して(?)歩き始めることに致しましょう。
堀に沿って東へ向かいます。 正面に見えるのは下横町・向雲寺の甍です。 突き当りを右折します。 | ||
曲るとすぐ、道は左折と直進の二又になり、角には、何となく道しるべらしき石が置かれています。 ここは、直進してみましょう。 | ||
道なりに進むと、また複雑な分かれ道が出現します。 突き当りまで行って右へ行く道もありますが、その手前の細い道を、右折してみます。 | ||
突き当りのフェンスを右に曲がると、光明寺(こうみょうじ)です。 せっかくですので、寄り道をしていきましょう。 |
光明寺は、至徳二年(1385)の開山といいますから、鎌倉時代(1192-1333)にはまだ無かったということになります。
ということは、それまで鎌倉道はこんなにくねくねと曲がっていなかったんでしょうね。
このお寺、最初は安楽院遍照坊という名前だったそうですから、たぶん小さな寺だったのでしょう。
ところが慶長年間(1604頃)、時の住職が、第二代高崎藩主・酒井家次の嫡子・忠勝の病気を、秘法を以って治癒させたのだそうです。
その褒美として家次は、日天子・月天子を安置した宮殿(くうでん)を建立し、仏殿を修復して、寺の名前も日宮山(ひのみやさん)光明寺と名付けたといいます。
明治初期、この辺りは「明石町」(あかしちょう)という町名でしたが、「明」は光明寺の「明」。
そして「石」は、近くにある和田三石のひとつ「方石」(かくいし)の「石」だそうです。
「方石」は別名「化け石」ともいい、源頼朝の馬が化け物と見間違えて、驚いて蹴った石だという伝説が残っています。
いかにも、鎌倉道らしい伝説ではないでしょうか。
本堂の左は、もと古墳だったそうで、愛染明王を安置した「愛染堂」が建っています。
ここにも面白い話が伝わっていて、
安政二年(1855)の大地震で家業が衰退して困っていた、江戸下谷の商人・市野屋善次郎という人が夢の中で、お告げを受けました。
「東方に光明が輝き、仏像あり、上州高崎光明寺という。」
善次郎は、すぐ光明寺を訪ねて、荒れ果てていた地蔵堂を再建したところ、再び家業が繁栄したということです。
明治末期に作られた「高崎唱歌」に、
♪若松町に光明寺
夢に名を得し愛染堂♪
とあるのは、このことだそうです。
光明寺の墓地には、「心の燈台」内村鑑三が建てた、内村家五代の墓があります。
しかし、これを建てた内村鑑三自身は、ここに眠っていません。
クリスチャンだった内村鑑三の墓は、宗旨・宗派を問わない東京多摩霊園にあります。
まだいくらも歩いてないのに、こんなに長くなってしまいました。
続きは、また次回に致しましょう。