坂を上りて赤坂町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町
長松恵徳両寺院
北に曲れば三国道
四ッ谷相生住吉町
「群馬県営業便覧」で見る、明治三十七年(1904)の赤坂町です。
意外なのは、「木賃宿」とか「旅人宿」とかが多いことです。
8軒もの宿が並んでいます。
それと、お菓子屋さんが4軒もあります。
いずれのお菓子屋さんも宿の近くにあるというのは、何か意味がありそうです。
町の中ほど、旧中山道を挟んで北に「長松寺」、南に「恵徳寺」(営業便覧に威徳寺とあるのは間違い)があります。
「長松寺」の隣には「高崎北尋常小学校分教場」と書かれています。
「北尋常小学校」は、児童数が増えた「高崎尋常小学校」の分校として明治三十三年(1900)請地町(うけちまち)に開校しますが、そこに収容しきれない児童のために充てたのが「長松寺」の分教場でした。
ところが、当時は貧困のため就学できない児童が多かったようで、とくに女子の多くは家事に従事しているか、子守奉公に出されていたと言います。
「高崎市教育史 上巻」には、こんな記述があります。
「 | 当時、赤坂町の長松寺は、高崎市北尋常小学校の仮分教室として使用されていた。 寺内では、毎日、北小学校の児童たちが勉強しているのであるが、境内では、いつも数人の子守が、あるものは赤ん坊を背負い、あるものは幼児を連れて遊んでいる。 その言動を見るとまことに粗野であるから、知らず知らずのうちに幼児に悪影響を及ぼし、また、子守自身の将来にとっても良くないことは明らかである。」 |
その状況を見ていた長松寺住職・山端息耕(やまはた そっこう)は、北小学校校長・小林茂と協力して、明治三十六年(1903)分教場内に「樹徳子守学校」を開校します。
同校の基本方針は、
「お守り第一」(幼児を大切にすること)
「勉強第二」(幼児の機嫌のよい時に勉強する)
だそうです。
義務教育の普及により子守児童も減少してきた昭和十四年(1939)に「高崎樹徳学校」と改称しますが、昭和十九年(1944)に閉校となります。
その校舎は昭和十六年(1941)に創設された「日の丸保育園」の園舎としても使用され、平成十三年(2001)に閉園された現在もその姿は残されています。
ふと山門の足元を見ると、こんな石碑がありました。
サインを見ると、あの石澤久夫氏の作でした。
そうだ、「長松寺」は石澤氏の菩提寺でした。
なので、寺には石澤氏の作品がたくさん残っています。
引き返してその写真を撮らせて頂いたので、次回、ご覧頂くことといたしましょう。