寿橋を過ぎ行けば
新田南新喜町
右手に見ゆる杉森は
愛宕神社の境内ぞ
新田南新喜町
右手に見ゆる杉森は
愛宕神社の境内ぞ
「寿橋」は、中山道の新(あら)町と新田(しんでん)町との境の「遠構え」の堀に架かっていた石橋です。
下の写真の二つの建物の間を「遠構え」の堀が通っていたので、その手前辺りに架かっていたのでしょう。
明治十五年(1882)発行の「更正高崎旧事記」に「寿橋」のことが書かれています。
「 | 新町 石橋 寿橋ト云 |
新町ト新田町トノ界(さかい)遠構堀ニ架クル由緒ハ、明治六酉年発起人岡田源平父孫六齢九十一ニシテ架ス。 | |
同人三夫婦ニテ渡初ス。故ニ名付テ寿橋ト云。」 |
このことを9年前の記事に書いたのですが、その中で岡田源平は、新町の料亭「岡源」の経営者であると書いていました。
ところが、最近「岡源」の事を調べてみると、「岡源」という店名は6代目の岡田源三郎から使われ(2004.4.5上毛新聞)、その後の当主に源平という人物はいない(ぐんま経済図鑑)ことが分かりました。
じゃ、9年前、私が何を根拠に岡田源平を「岡源」の経営者としたのか。
改めていろいろな資料や書籍をひっくり返してみたら、「高崎の散歩道 第十二集下」にありました。
土屋喜英氏執筆の「遠構えめぐり」という文中に「岡田源平とは今の岡源である。」とはっきり書いてあったのです。
尊敬する土屋喜英氏の言なので、俄かにそれが違うとも思いにくいのですが。
平成二年(1990)群馬経済新聞社発行の「ぐんま経済図鑑」に書かれている「岡源」の歴史を見てみましょう。
「 | 岡源はいつ創業したのか。 古い記録は火災で焼けてしまったが、江戸期の旅籠、いまでいう旅館で「岡田屋」といっていたようだ。(略) |
岡源の先祖で記録に残っているのは、岡田米造社長(八代目)の曽祖父源七、さだ夫妻からだという。 源七は榛名町室田の素封家で材木商だった清水家の出。さだは旧群馬郡滝川村の旧家天田作左衛門の娘で夫婦両養子だったという。 |
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明治初年から中期にかけ、岡源は割烹と旅館業で大いに繁昌した。 女将のさだは女丈夫で商売上手、当時、日本を横断して、新潟の鍋茶屋、高崎の岡源、東京の八百膳と有名な料亭の三人の女将が、”女三傑”といわれた、ということである。 |
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源七は早く他界したが、さだは岡源を盛りたて、昭和三年に八十三で没した。」 |
明治四十三年(1910)発行の「高崎案内」にも、出てきません。
「 | 仝家が割烹店となれる動機を語らんに、維新後新町に初めて劇場の新築せられし時、芝居茶屋を開業し引続き営業は為したれども、其当時は割烹店たるの資格はほとんど零なりしと云う。 |
然るに老女将の手腕と僥倖にも好時勢に投合したるを以て、予期以上の盛大に至り、家屋器具より一切の設備とても他の企及すべき所にあらず。」 |
「岡源」自体は「高崎唱歌」に出てこないのですが、せっかくなのでもう少し書いておきましょう。
「岡源」は新町の本店と高崎公園内の支店があったようです。
さらに、前橋の馬場川通りにも支店があったんですから驚きです。
ヒゲクマさんのブログに、「前橋岡源」の絵と歴史が載ってます。
さらに、さらに、高崎柳川町に「岡源別館」というのもあったらしいです。
「 | 源七の後継者源三郎は、榛名町室田の源七の兄源六の子供で、娘婿になった。妻はリキといった。(略) |
この時代、高崎市の花柳界は、新町あたりを下検番、柳川町あたりを上検番と芸者の検番が二つあった。連隊や卸商が店を連ね、町は活気があった。 | |
岡源が柳川町に”岡源別館“を持ったのはこの頃である。」 |
ただ、この「岡源別館」が柳川町のどこにあったのか、これがどうも分からないのです。
地図をひっくり返しても、本をひっくり返しても出てきません。
これから柳川町の「岡源別館」捜索のお話をしたいのですが、けっこう長くなりそうなので、次回に続けることに致します。