前回は、柳川町の「岡源別館」が、どこにあったのか分からないというお話でした。
写真を見ると立派な庭園があったようなので、ふと頭に浮かんだのが、ご先祖が造園業をしてた「有花園」の亀田さんです。
訊いてみると、すぐに返信が来てその中に、
「今の「黒松」と言うラーメン屋さんがあるところは「小沢別邸」→「中西別邸」で、この庭は有花園の2代目が作ったようです。」
と書いてありました。
「小沢別邸」というのは、銀行家・小沢宗平の別邸で、桜井伊兵衛の「蟹下苑」、須藤清七の「椿荘」とともに「高崎の三名園」と呼ばれた名庭園です。
亀田さんのメールにある「中西別邸」という名前に、ピン!ときました。
「ぐんま経済図鑑」の中に、「岡源別館」を中西啓三という人物に売ったという記述があるのを思い出したからです。
六代目・源三郎の後を継いだ七代目・米造が昭和十年(1935)に三十六歳で早世し、その後の「岡源」を照子夫人が守っていた時代のことです。
亀田さんの言う「中西別邸」は、中西啓三が買った「岡源別館」ではないのか。
つまり、「小沢別邸」→「岡源別館」→「中西別邸」ではないかと。
その話を亀田さんにすると、こんなご返事がありました。
「先ほど、岡源の岡田さんに聞いてきました。
おっしゃる通りで、小沢別邸と中西別邸の間に、岡源が所有してた時があるそうです。
年代までは定かではないけど、間違いでは無いとのことでした!」
という感動的なメールです。
とすれば、そこの土地台帳を見ればその変遷が分かるはずです。
法務局へ行って、確認した土地台帳がこれです。
この土地台帳を見ると、小沢宗平が土地を売ったのは昭和十四年(1939)、売却先は「中西啓三」ではなく「中西啓之助」となっています。
でも、肝心の「岡源」の名は載っていません。
あれー?
ここでないとすれば何処だ?
柳川町の土地台帳を、すべて虱潰しに調べてみましたが、「岡源」所有の土地は見当たりません。
あれー?
何とも諦めきれず、もういちど「小沢別邸」の土地台帳を見直してみると、沿革欄に「昭和六年・・・賃貸云々」と書いてあるのに気がつきました。
もしかすると、「岡源別館」は昭和六年(1931)に「小沢別邸」を賃借したものだったのかも知れません。
土地台帳では、昭和三十年(1955)に中西啓之助から高崎市に所有権が移転されていますが、「ぐんま経済図鑑」にもそのような記述があります。
「中西啓三」は「中西啓之助」と同人物と思われますが、中西啓之助については昭和十八年(1943)の「大衆人事録」にこう記されています。
この「料理業」については、大正六年(1917)の「高崎商工案内」に「なべや支店 連雀町 中西啓之助」とあります。
また、昭和十八年(1943)の「人事興信録」には、「株式仲買商 中西啓之助」とあって、「ぐんま経済図鑑」の「相場師中西啓三」という記述とも符合します。
「岡源別館」が閉じられた後、昭和二十三年(1948)に照子夫人が四十九歳という若さで他界します。
前橋医専在学中の長男・米造は、医師への道を断念し、卒業後「岡源」の八代目経営者となります。
そして、昭和四十年(1965)「ニュー岡源」と改称して、時代にマッチした店舗経営を展開します。
しかし、平成十六年(2004)ついにその歴史に幕を下ろす時がやって来ます。
跡地は、今こうなっています。
「岡源支店」があったという高崎公園へ行って見ました。
「動物舎」のある所ということなので、この辺だったんでしょうか。
柳川町の「岡源別館」にあったという石灯籠も公園内にあるというので、探してみました。
銘も何も刻まれてませんが、たぶんこれでしょう。
「宝珠」が下に落ちちゃってます。
「岡源別館」(小沢別邸)があったのはこの辺です。
今は、行列のできるラーメン店「くろ松」が角にあります。
高崎の老舗割烹店「岡源」の名が人々の記憶から消えてしまう日も、そう遠くはないのでしょう。
寂しいことです。
「岡源」で、だいぶ長くなってしまいました。
「高崎唱歌33番」の続きは、また次回送りですね。
写真を見ると立派な庭園があったようなので、ふと頭に浮かんだのが、ご先祖が造園業をしてた「有花園」の亀田さんです。
訊いてみると、すぐに返信が来てその中に、
「今の「黒松」と言うラーメン屋さんがあるところは「小沢別邸」→「中西別邸」で、この庭は有花園の2代目が作ったようです。」
と書いてありました。
「小沢別邸」というのは、銀行家・小沢宗平の別邸で、桜井伊兵衛の「蟹下苑」、須藤清七の「椿荘」とともに「高崎の三名園」と呼ばれた名庭園です。
亀田さんのメールにある「中西別邸」という名前に、ピン!ときました。
「ぐんま経済図鑑」の中に、「岡源別館」を中西啓三という人物に売ったという記述があるのを思い出したからです。
六代目・源三郎の後を継いだ七代目・米造が昭和十年(1935)に三十六歳で早世し、その後の「岡源」を照子夫人が守っていた時代のことです。
「 | 戦中戦後の社会の動乱の中、岡源も大変だった。 昭和十八年には企業整備で商売も中断、柳川町の数寄を凝らした料亭の家と、見事な庭園の岡源別館六百坪を、高崎の相場師中西啓三に売り、新町の家は、軍需工場の榛名航空の社員寮として貸し、家賃で風の過ぎるのを待つように生活していた。」 |
「ぐんま経済図鑑」
亀田さんの言う「中西別邸」は、中西啓三が買った「岡源別館」ではないのか。
つまり、「小沢別邸」→「岡源別館」→「中西別邸」ではないかと。
その話を亀田さんにすると、こんなご返事がありました。
「先ほど、岡源の岡田さんに聞いてきました。
おっしゃる通りで、小沢別邸と中西別邸の間に、岡源が所有してた時があるそうです。
年代までは定かではないけど、間違いでは無いとのことでした!」
という感動的なメールです。
とすれば、そこの土地台帳を見ればその変遷が分かるはずです。
法務局へ行って、確認した土地台帳がこれです。
この土地台帳を見ると、小沢宗平が土地を売ったのは昭和十四年(1939)、売却先は「中西啓三」ではなく「中西啓之助」となっています。
でも、肝心の「岡源」の名は載っていません。
あれー?
ここでないとすれば何処だ?
柳川町の土地台帳を、すべて虱潰しに調べてみましたが、「岡源」所有の土地は見当たりません。
あれー?
何とも諦めきれず、もういちど「小沢別邸」の土地台帳を見直してみると、沿革欄に「昭和六年・・・賃貸云々」と書いてあるのに気がつきました。
もしかすると、「岡源別館」は昭和六年(1931)に「小沢別邸」を賃借したものだったのかも知れません。
土地台帳では、昭和三十年(1955)に中西啓之助から高崎市に所有権が移転されていますが、「ぐんま経済図鑑」にもそのような記述があります。
「 | 岡源別館は、戦後中西啓三が高崎市に寄附、いまは売却、分割された。 庭園にあった高さ2mもある石灯ろうは高崎公園に置かれてある。」 |
「中西啓三」は「中西啓之助」と同人物と思われますが、中西啓之助については昭和十八年(1943)の「大衆人事録」にこう記されています。
「 | 本県峯岸寛一郎三男 明治十七年十二月十日碓氷郡板鼻町に生まれ中西熊吉の養子となる。 |
夙に現地に料理業を経営、大正十三年現業に転ず。」 |
この「料理業」については、大正六年(1917)の「高崎商工案内」に「なべや支店 連雀町 中西啓之助」とあります。
また、昭和十八年(1943)の「人事興信録」には、「株式仲買商 中西啓之助」とあって、「ぐんま経済図鑑」の「相場師中西啓三」という記述とも符合します。
「岡源別館」が閉じられた後、昭和二十三年(1948)に照子夫人が四十九歳という若さで他界します。
前橋医専在学中の長男・米造は、医師への道を断念し、卒業後「岡源」の八代目経営者となります。
そして、昭和四十年(1965)「ニュー岡源」と改称して、時代にマッチした店舗経営を展開します。
しかし、平成十六年(2004)ついにその歴史に幕を下ろす時がやって来ます。
跡地は、今こうなっています。
「岡源支店」があったという高崎公園へ行って見ました。
「動物舎」のある所ということなので、この辺だったんでしょうか。
柳川町の「岡源別館」にあったという石灯籠も公園内にあるというので、探してみました。
銘も何も刻まれてませんが、たぶんこれでしょう。
「宝珠」が下に落ちちゃってます。
「岡源別館」(小沢別邸)があったのはこの辺です。
今は、行列のできるラーメン店「くろ松」が角にあります。
高崎の老舗割烹店「岡源」の名が人々の記憶から消えてしまう日も、そう遠くはないのでしょう。
寂しいことです。
「岡源」で、だいぶ長くなってしまいました。
「高崎唱歌33番」の続きは、また次回送りですね。