山崎正がやっていたという「幌馬車書房」がどこにあったのか、どうしても知りたくて調べを続けました。
いろいろ調べていく内に、山崎正は「幌馬車詩人社」という同人会に所属していたことが分かってきました。
もしかすると、「幌馬車書房」は「幌馬車詩人社」の誤りなのではないか、と思うようになりました。
「書房」というので「書店」「本屋」をイメージしていましたが、同人会の事務所だったのかも知れません。
であれば、近くの人が知らないというのも肯けます。
さらに調べていくと、その同人誌「幌馬車」が、高崎図書館の書庫に三冊ほど所蔵されていることが分かりました。
昭和十二年(1937)発行のものを見ると、「幌馬車詩人社」の住所は「高崎市江木町二三七(高槻方)」とあり、残念ながら柳川町ではありません。
ということは、山崎正が主宰していた同人会ではないということで、ちょっと落胆しました。
しかし巻末の「消息」欄に次のような記述を見つけ、ささやかな喜びを味わうことはできました。
さらに迷道院を欣喜させたのは、昭和二十一年(1946)発行の「幌馬車」誌でした。
やはり、「幌馬車書房」でよかったんです。(後で、古書店であったことが判明します。)
しかも、番地まで書いてあるじゃありませんか。
さらに驚くことに、その番地は、前に教えて頂いた、山崎正の両親が住んでいたという場所だったんです。
史跡看板に書いてある通り、たしかに「電気館の側」でした。
ここで気になったのは、山崎正は「粋な黒塀」の所からここへ引っ越したのかということなんですが、同誌の「編輯部員住所錄」を見ると「高崎市柳川町一 松浦方 山崎正」となっているので、32番地はあくまで「幌馬車書房」として使っていて、住んでいたのは1番地、しかもそこは借家だったということも分かりました。
最後に、取材で得たお話を一つ。
お富さんが住んでいたという、黒塀に見越しの松があった家は、現在コイン駐車場になっています。
「お富さん」が発表され大ヒットしたのは、昭和二十九年(1954)のことでした。
「電気館」での歌謡ショーの後に、山崎正の家で撮った写真が残っています。
時はまさに「戦後復興期」から「経済成長期」に入り、人々の娯楽文化が一気に花開く時でありました。
ここに、山崎正の略歴をご紹介しておきましょう。
いろいろ調べていく内に、山崎正は「幌馬車詩人社」という同人会に所属していたことが分かってきました。
もしかすると、「幌馬車書房」は「幌馬車詩人社」の誤りなのではないか、と思うようになりました。
「書房」というので「書店」「本屋」をイメージしていましたが、同人会の事務所だったのかも知れません。
であれば、近くの人が知らないというのも肯けます。
さらに調べていくと、その同人誌「幌馬車」が、高崎図書館の書庫に三冊ほど所蔵されていることが分かりました。
昭和十二年(1937)発行のものを見ると、「幌馬車詩人社」の住所は「高崎市江木町二三七(高槻方)」とあり、残念ながら柳川町ではありません。
ということは、山崎正が主宰していた同人会ではないということで、ちょっと落胆しました。
しかし巻末の「消息」欄に次のような記述を見つけ、ささやかな喜びを味わうことはできました。
「 | 山崎正 |
九月二十日以來北支戰線に奮闘中、二十六日病得て○○野戦病院に入院、十月四日更に○○陸軍病院に轉院、砲煙彈雨の中に在りても猶詩作を忘れず、身を以て書いた作品數十篇を歌謡集『漁火』として近日出版の由。」 | |
さらに迷道院を欣喜させたのは、昭和二十一年(1946)発行の「幌馬車」誌でした。
「 | 消息 |
山崎正氏 | |
同氏經營の『幌馬車書房』は九月中旬高崎市柳川町三二番地に移轉、『日本作歌者協會』員に推薦さる。」 |
やはり、「幌馬車書房」でよかったんです。(後で、古書店であったことが判明します。)
しかも、番地まで書いてあるじゃありませんか。
さらに驚くことに、その番地は、前に教えて頂いた、山崎正の両親が住んでいたという場所だったんです。
史跡看板に書いてある通り、たしかに「電気館の側」でした。
ここで気になったのは、山崎正は「粋な黒塀」の所からここへ引っ越したのかということなんですが、同誌の「編輯部員住所錄」を見ると「高崎市柳川町一 松浦方 山崎正」となっているので、32番地はあくまで「幌馬車書房」として使っていて、住んでいたのは1番地、しかもそこは借家だったということも分かりました。
最後に、取材で得たお話を一つ。
「 | あの黒塀の家にはね、ほんとにお富さんという女性が住んでたのよ。見越しの松もあって。 |
この辺は、ほら、花柳界でしょ。 お富さんもそういう女性だから、ほんとに洗い髪できれいだったの。 だから「お富さん」の歌が出た時、あぁ、ここのことを歌にしたのねって、この辺の人はみんな言ってたの。 |
|
お富さんの歳?そうねぇ、50歳くらいだったかねぇ。 | |
でも、借金してね、大変だったみたい。 | |
独り暮らしだったから、亡くなって一週間くらいしてから見つかったのよ。」 |
お富さんが住んでいたという、黒塀に見越しの松があった家は、現在コイン駐車場になっています。
「お富さん」が発表され大ヒットしたのは、昭和二十九年(1954)のことでした。
「電気館」での歌謡ショーの後に、山崎正の家で撮った写真が残っています。
時はまさに「戦後復興期」から「経済成長期」に入り、人々の娯楽文化が一気に花開く時でありました。
ここに、山崎正の略歴をご紹介しておきましょう。
(参考資料:前橋文学館発行「山崎正・歌謡曲の世界」)
大正五年(1916) | 東京亀戸に生まれる。本名・松浦正典。 母の再婚により高崎に移住。 |
高崎中学(現高崎高校)卒業後、東京美術学校入学。 この頃から作詞にも関心を持ち始め、高橋掬太郎の門下生となる。 |
|
昭和11年(1936) | 歌謡同人誌「幌馬車」の同人となる。 |
昭和12年(1937) | 高崎歩兵十五連隊に入隊。 |
昭和13年(1938) | 満州チチハル陸軍病院から歌謡集「踊る支那兵」を、見舞いに来た民間人に秘かに託し、内地に投函する。 帰還後、慰問文が縁で前橋の料亭「鳥辰」の長女・ふみ子と結婚。 |
昭和16年(1942) | 作詞した「暁の門出」「茶作り次郎長」「軍歌千里」の三曲が、近藤広の作曲でレコード発売。 長男・正幸誕生。 |
昭和17年(1942) | 次男・薫(現「つ く し」店主)誕生。 |
昭和19年(1944) | 再び招集。東部三八部隊に陸軍兵長として入隊。 三男・義明誕生。 |
昭和21年(1946) | 高崎市柳川町に古書店「幌馬車書房」を開店。 |
昭和22年(1947) | 自由作詞家連盟の同人誌「歌謡街」を創刊。 |
昭和26年(1951) | 単身上京、文化放送に所属。ラジオのコマーシャルソングなどを手掛ける。 個人誌「河童」創刊。 |
昭和28年(1953) | 「お富さん」を仕上げたのち、住居を前橋に移す。 |
昭和29年(1954) | 渡久地政信作曲で「お富さん」発売。 |
昭和30年(1955) | 高崎電気館を借り切り、「お富さん祭り」を開催。 |
昭和31年(1956) | 「前橋音頭」作詞。 |
昭和34年(1959) | 前橋市石川町に「山崎歌謡教室」を開設。 |
昭和37年(1962) | 「太田囃子」「伊勢崎囃子」作詞。 |
昭和39年(1964) | 社団法人日本作詞家協会理事に就任。 |
昭和43年(1968) | 山崎正永眠。享年52歳。![]() |
【幌馬車書房があった所】