今日は「和田の三石」の2つ目、「立石(たていし)」のご紹介だ。
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高崎の古称が「和田」だというのはご存知の方も多いと思うが、田島武夫氏著「高崎の町名由来」によると、もっと前は「赤坂」と言っていたそうだ。
今の赤坂町の坂の土質が、赤埴(あかはに:赤色の粘土)で目立ったからのようだ。
田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」には、次のような話が書かれている。
赤坂の坂下には中山道西口の木戸があり、その傍らに「立石」はあったそうだ。
弘法大師行脚の節、この石に腰掛けられたというので「大師石」ともいう。
名石だというので、井伊直政が築城の時、他の場所に移そうとして十余人の人夫に担がせたが、途中で急に重くなって動かなくなったので、人々は怪しみ恐れてそのままに捨て置いたという。
元禄の頃、再び動かす必要ができたので、里人が「神と崇め祀るから」とお願いしたところ、数人で軽々と担ぐことができ、赤坂の観音堂境内(「長松寺」の西にあった)に移動した。
おこり(瘧:マラリヤ)を患う人が石に祈ると必ず治るというので、「おこり石」とも名づけられていた。
私が子どもの頃は、高崎神社境内の中央付近(現在の駐車場)にあったような気がする。
そんな偉い石とは知らず、上によじ登ったりして遊んでいた。
よく、バチが当たらなかったものだ。(いや、もしかすると、当たってるかも知れない・・・。)
今現在は、高崎神社(熊野社)石段脇の植え込みにある。
流石の「立石」も近代の重機にはたてつくこともできず、あちこちと動かされてしまったようだ。
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高崎の古称が「和田」だというのはご存知の方も多いと思うが、田島武夫氏著「高崎の町名由来」によると、もっと前は「赤坂」と言っていたそうだ。
今の赤坂町の坂の土質が、赤埴(あかはに:赤色の粘土)で目立ったからのようだ。
田島武夫氏著「高崎の名所と伝説」には、次のような話が書かれている。
赤坂の坂下には中山道西口の木戸があり、その傍らに「立石」はあったそうだ。
弘法大師行脚の節、この石に腰掛けられたというので「大師石」ともいう。
名石だというので、井伊直政が築城の時、他の場所に移そうとして十余人の人夫に担がせたが、途中で急に重くなって動かなくなったので、人々は怪しみ恐れてそのままに捨て置いたという。
元禄の頃、再び動かす必要ができたので、里人が「神と崇め祀るから」とお願いしたところ、数人で軽々と担ぐことができ、赤坂の観音堂境内(「長松寺」の西にあった)に移動した。
おこり(瘧:マラリヤ)を患う人が石に祈ると必ず治るというので、「おこり石」とも名づけられていた。
私が子どもの頃は、高崎神社境内の中央付近(現在の駐車場)にあったような気がする。
そんな偉い石とは知らず、上によじ登ったりして遊んでいた。
よく、バチが当たらなかったものだ。(いや、もしかすると、当たってるかも知れない・・・。)
今現在は、高崎神社(熊野社)石段脇の植え込みにある。
流石の「立石」も近代の重機にはたてつくこともできず、あちこちと動かされてしまったようだ。
【和田の立石】
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