「地獄堰」という名前の水路が、ずーっと気になっていた。
「地獄堰」という名前を知ったのは、もう何年も前のことだが、どこをどう流れている水路なのか、調べてみたことはなかった。
江木町の城東小学校の前にこんな石碑が建っている。
碑文には、
「恐ろしや 地獄の関と 思いしが
悟ればここぞ 極楽の堰」
と刻まれており、ここにも「地獄」という言葉が登場する。
この石碑は、その先にある「円筒分水」施設ができたことを記念して、建てられたものであろう。
「円筒分水」は、長野用水を下流域の「倉賀野堰」「上中居堰」「矢中堰」そして「地獄堰」に、平等に分配するための施設で、1962年(昭和37年)に完成した。
昔、この付近を「八堰」と呼んでいたそうで、長野用水の支流となる水路がたくさん分岐していたのだろう。
田植え時期になると、それぞれの村の人が水を確保するために、この堰に集まってきたのだそうだ。
一応、各村の町歩に応じて取水することにはなっていたが、各村は人数を集めて、堰を挟んでお互いにけん制し、にらみ合いが続いたと「高崎漫歩」に書かれている。
水の確保に「地獄」を見た村人たちも、「円筒分水」ができてからは、安心して田植えに専念できるようになったというのが、先の「石碑」の碑文となったものと思われる。
さて、「地獄堰」であるが、「円筒分水」から分かれた水を、水路伝いに追ってみた。
するといきなり、水路の脇の細い道に、もう少しで落ちそうな姿で駐車している車を見かけた。
どうやら、道の奥の家の車のようだが、毎日こんな狭い道をバックで入れるているとは、まさに「地獄」の思いだろう。
さらに水路に沿って行くと、「電話金融」の看板を見つけた。
うーん、これもうっかり電話すると、「地獄」を見そうだ。
さすが「地獄堰」だ・・・。
「地獄堰」の水は、この後、高関町に入る。
高関は昔は「高堰」と書いたらしく、高低差のある堰で、その水の勢いを利用して水車が二か所にあったという。
そして水はさらに、南大類、柴崎、下大類、綿貫の田畑を潤しながら、井野川に流入していく。
かつて「地獄」を見た「水争い」も、人間の叡智と技で「極楽」に変えることができた。
だが、地球上ではいまだに、様々な「争いごと」が絶えることがない。
地球上の全ての人が、「極楽」を味わえる日は、いつになることだろう。
「地獄堰」という名前を知ったのは、もう何年も前のことだが、どこをどう流れている水路なのか、調べてみたことはなかった。
江木町の城東小学校の前にこんな石碑が建っている。
碑文には、
「恐ろしや 地獄の関と 思いしが
悟ればここぞ 極楽の堰」
と刻まれており、ここにも「地獄」という言葉が登場する。
この石碑は、その先にある「円筒分水」施設ができたことを記念して、建てられたものであろう。
「円筒分水」は、長野用水を下流域の「倉賀野堰」「上中居堰」「矢中堰」そして「地獄堰」に、平等に分配するための施設で、1962年(昭和37年)に完成した。
昔、この付近を「八堰」と呼んでいたそうで、長野用水の支流となる水路がたくさん分岐していたのだろう。
田植え時期になると、それぞれの村の人が水を確保するために、この堰に集まってきたのだそうだ。
一応、各村の町歩に応じて取水することにはなっていたが、各村は人数を集めて、堰を挟んでお互いにけん制し、にらみ合いが続いたと「高崎漫歩」に書かれている。
水の確保に「地獄」を見た村人たちも、「円筒分水」ができてからは、安心して田植えに専念できるようになったというのが、先の「石碑」の碑文となったものと思われる。
さて、「地獄堰」であるが、「円筒分水」から分かれた水を、水路伝いに追ってみた。
するといきなり、水路の脇の細い道に、もう少しで落ちそうな姿で駐車している車を見かけた。
どうやら、道の奥の家の車のようだが、毎日こんな狭い道をバックで入れるているとは、まさに「地獄」の思いだろう。
さらに水路に沿って行くと、「電話金融」の看板を見つけた。
うーん、これもうっかり電話すると、「地獄」を見そうだ。
さすが「地獄堰」だ・・・。
「地獄堰」の水は、この後、高関町に入る。
高関は昔は「高堰」と書いたらしく、高低差のある堰で、その水の勢いを利用して水車が二か所にあったという。
そして水はさらに、南大類、柴崎、下大類、綿貫の田畑を潤しながら、井野川に流入していく。
かつて「地獄」を見た「水争い」も、人間の叡智と技で「極楽」に変えることができた。
だが、地球上ではいまだに、様々な「争いごと」が絶えることがない。
地球上の全ての人が、「極楽」を味わえる日は、いつになることだろう。
【地獄堰】