「電気館通り」という看板を付けた街灯が、まだ残っていることに驚いた。
「電気館」という名前を覚えている方は、もうそこそこのご年輩になっていることと思う。
かつて高崎に沢山あった、映画館の一つが「電気館」だ。
この映画館は、大映株式会社の映画を主に上映していた。
大映の当時のスターは、長谷川一夫、山本富士子、市川雷蔵、勝新太郎といった面々だ。
若い方にもご記憶があるかも知れないのは、「大怪獣ガメラ」とか「大魔神」か。
大映の映画が斜陽になってから、「日活ロマンポルノ」を上映する、ちょっと怪しい映画館になってしまった。
映画館を閉鎖してから一時期、「コンパ」という若者向けのスタンドバーがあったように記憶している。
その頃(昭和30年代)の映画は、映画と映画の間に「ニュース映画」というのが入った。
まだ、TVが普及していない頃、動くニュース映像は「へー!」というものがあった。
それまで白黒だった映像に、色がつき始めたのもこの頃だ。
カラーフィルムはまだ貴重な時代だったから、大事な場面だけカラーだった。
そもそも、「カラー」という言葉もなく、「天然色」と言っていた。だから「部分天然色映画」だったのだ。
全編通してカラーの「総天然色映画」になるのには、しばらく年月がかかった。
さらに時を経て、ワイド画面の「シネマスコープ」になり、音声もステレオの「立体音声」になっていく。
そしてやがて、TVやビデオに押されて、次々と映画館は閉鎖されていった。
「電気館通り」は「烟草横町(たばこよこちょう)」を西に直進して、中央銀座通りを横切った先である。
「烟草横町」の写真を撮りに行って、久しぶりにこの通りに入ったが、「電気館」の建物も、看板も、街灯も残っているのを見て、一瞬にして40年前にタイムスリップしたような気分になった。
建物の脇を覗き込むと、その先には当時とあまり変わらぬ、雑然とした色街の風情も残っている。
電気館の北側には、高崎一の歓楽街「柳川町」の飲食店街がある。
細い路地が迷路のように入り組み、酔ったらなかなか出てこられないかも知れない。
この地域が、これからどのように変わっていくのか分からないが、古さと新しさを上手く調和させた街として残ってほしいと願う。
「電気館」という名前を覚えている方は、もうそこそこのご年輩になっていることと思う。
かつて高崎に沢山あった、映画館の一つが「電気館」だ。
この映画館は、大映株式会社の映画を主に上映していた。
大映の当時のスターは、長谷川一夫、山本富士子、市川雷蔵、勝新太郎といった面々だ。
若い方にもご記憶があるかも知れないのは、「大怪獣ガメラ」とか「大魔神」か。
大映の映画が斜陽になってから、「日活ロマンポルノ」を上映する、ちょっと怪しい映画館になってしまった。
映画館を閉鎖してから一時期、「コンパ」という若者向けのスタンドバーがあったように記憶している。
その頃(昭和30年代)の映画は、映画と映画の間に「ニュース映画」というのが入った。
まだ、TVが普及していない頃、動くニュース映像は「へー!」というものがあった。
それまで白黒だった映像に、色がつき始めたのもこの頃だ。
カラーフィルムはまだ貴重な時代だったから、大事な場面だけカラーだった。
そもそも、「カラー」という言葉もなく、「天然色」と言っていた。だから「部分天然色映画」だったのだ。
全編通してカラーの「総天然色映画」になるのには、しばらく年月がかかった。
さらに時を経て、ワイド画面の「シネマスコープ」になり、音声もステレオの「立体音声」になっていく。
そしてやがて、TVやビデオに押されて、次々と映画館は閉鎖されていった。
「電気館通り」は「烟草横町(たばこよこちょう)」を西に直進して、中央銀座通りを横切った先である。
「烟草横町」の写真を撮りに行って、久しぶりにこの通りに入ったが、「電気館」の建物も、看板も、街灯も残っているのを見て、一瞬にして40年前にタイムスリップしたような気分になった。
建物の脇を覗き込むと、その先には当時とあまり変わらぬ、雑然とした色街の風情も残っている。
電気館の北側には、高崎一の歓楽街「柳川町」の飲食店街がある。
細い路地が迷路のように入り組み、酔ったらなかなか出てこられないかも知れない。
この地域が、これからどのように変わっていくのか分からないが、古さと新しさを上手く調和させた街として残ってほしいと願う。