
今日は市街地からちょっと外れの、「稲荷横丁」をご紹介しよう。
国道354号線の、相生町と住吉町の境目の信号を左に入る、一方通行の細い道である。
写真角の「大野理髪店」さんから3軒左に、明治30年創業という「深澤陶器店」がある。
この店頭に、大きな信楽焼の「タヌキ」が置いてあるので、よい目印になるかも知れない。
「稲荷横丁」のとばっ口に「タヌキ」とは洒落がきついが、この日、どういう訳かこの「タヌキ」、ゴザで簾(す)巻きにされていた。


もっともこの近辺、昔は「キツネ」も「タヌキ」も両方住んでいたらしい。
土屋喜英氏著「高崎漫歩」によると、「稲荷横丁」の南側、相生町と上和田町の境には、かつて、水車の回る深い谷があって、「キツネ」と「タヌキ」はその谷に生える草や、住民が捨てるゴミを餌にして暮らしていたという。
ところが、時代が進んで、水車がなくなり、ゴミも捨てなくなると、谷に餌がなくなってくる。
それでも「キツネ」は「お稲荷さん」の上りでどうにか飢えをしのげたが、「タヌキ」はすっかり参ってしまう。
冬のある日、弱った「タヌキ」がよろよろと這い出して来て、息絶えたという。
その「タヌキ」は剥製(はくせい)にされて、赤坂町の「長松寺」にあるというが、本当だろうか。


「稲荷横丁」に入って直ぐの左側に、朱色も鮮やかに、立派な「お稲荷さん」の祠がある。
「油揚げ」は無かったので、もう食べた後だったのだろうか。
毎度おなじみの土屋喜英氏等5人の著者による、「開化高崎扣帖」(かいか・たかさき・ひかえちょう)という本に、ここの「お稲荷さん」の面白い言い伝えが紹介されている。
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「お稲荷さん」の脇に、以前は公衆便所があった。明治の初めに、ここの「お稲荷さん」が高崎神社へ移されたことがあった。
その夜、白い着物を着た美しい娘が、町内の信者の夢枕に立って、
「私はこの町内に古くから住んでいた狐でございますが、今度、住まいを移されてしまいました。
しかしどうしても、元のすみかに戻りたいのでお願いに参りました。
あの便所の横でも良いから、ぜひ戻れるようにしてください。
もし願いが叶えられたなら、そのお礼に、ここから四里四方の信者には、きっと「下の病」(しものやまい)には罹らないようにしてあげます。」
と言って姿を消したという。
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ここの「お稲荷さん」は、「玉姫稲荷」とも言われる女狐様である。
という訳で、女性がここの「お稲荷さん」にお参りすると、「下の病の治癒」、そして「子宝恵授」にご利益があるのだそうだ。
お悩みの方は、一度お参りしてみては?
【稲荷横丁】