2009年01月18日

ゴロゴロ山

矢中町に、「ゴロゴロ山」と言うのがあると聞いていて、ずーっと気になっていた。

今日は朝から曇り空だが、風がないのに勇気づけられ、散歩がてら探してみることにした。

あるとすればこの辺だろうと見当をつけ、道を1本通り抜けたが見つからない。
1本南の道をもう一度通り抜けたが、見つからない。
そのまた、もう1本南の道は、車の通りの多い道で、そこは何度も通ったことがある。
まさか、この道沿いにあるはずは・・・、と思っていたら・・・あった!
なーんだ、ここかー。

人間というのは、「見ようと思わなければ、見ても見えない」ということがよく分かった。

「山」とは言うものの、ちょっと高めの盛り土という感じである。

ただ、そこに生えている木は迫力がある。
北京五輪の100mで金メダルを獲った、ジャマイカのボルト選手のような格好をしている。
(えのき)とも(むく)とも言われるが、正解は何だろう?

木の根元に、石のがある。
これは、昔、歯の病で死んだ巡礼の墓だと言われている。
言い伝えでは、が痛む時に、土を一升この山に持ってきて撒くと、痛みが治まるという。

言い伝えといえば、昔この辺では、よくキツネに化かされて、ふんどし一丁にされてしまうという話があったらしい。
その実は、倉賀野の宿場へ遊びに行って、博打女郎に金を使って無一文になり、身ぐるみ剥がされて家に帰るはめになった、村の男の言い訳だったようだ。
そんな言い訳が通った昔は、いいなぁー。

ところで、「ゴロゴロ山」という名前の由来だが、昔、ここの木にが落ちたことがあったそうで、その時の音から「ゴロゴロ山」と呼んだのだそうだ。

確かに、この木の幹には大きな(うろ)がある。
その時の裂け目の跡であろう。
それにしても、こんなにひどい傷を負いながら、今日の大きさまでよくまぁ頑張って生き続けたものだ。


歯の痛みを取るという話は、もしかしたら、この傷跡虫歯の穴のように見えたからではないかと思った。

傷負いて 故に知りうる 人の傷 <迷道院>

「ゴロゴロ山」の石仏


(参考図書:「高崎漫歩」)


【ゴロゴロ山】


  


Posted by 迷道院高崎at 16:44
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2009年01月21日

小万坂(こまんざか)

若松町「観音通り」聖石橋に向かって下る坂を「車坂」と呼ぶらしい。
「小万坂」の話しに入る前に、ちょっと「車坂」の名前について書いておこう。
昔、この坂に沿って、「損馬堀(そんまぼり)」という名前の深い堀があったそうだ。
この堀は水量が多かったので、水車が4つ回っていたところから、「車坂」と呼んだのだという。



「小万坂」は、「車坂」を下る途中、竜広寺の前を左に入った坂道である。




「小万坂」を降りはじめるとすぐ左の奥に、「小万地蔵」堂がある。

「小万坂」にあるから「小万地蔵」なのか、それとも、「小万地蔵」のある坂だから「小万坂」なのか、よく分からない。

ただ、高崎城の前の和田城時代の古絵図には、すでに「小万坂」という名が記されているというから、おそらく鎌倉時代からそう呼ばれていたのではないかという。

堂の中には、沢山の数のお地蔵様が供えられている。

古い物もあり、新しい物もあり、また、着ている服も、定番の赤いものからカラフルなものまで。

今もお地蔵様を大切にお守りし、あるいはお地蔵様に願を掛けに来る人が多いことをうかがわせる。
きっと、霊験あらたかなお地蔵様なのだろう。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」に、「小万坂」「小万地蔵」の由来が書いてあった。
「鎌倉時代、夫妻の回国者があり、この辺で妻が病のため没し
 た。
 その妻の名を『小万』といい、里人はこれを哀れみ
 堂宇を建立して地蔵尊を祀った。」


そうか、「小万」さんのために「小万地蔵」ができて、それから坂を「小万坂」と呼ぶようになったのか。

里人に地蔵尊まで祀ってもらった「小万」さんて、どんな方だったのだろう。
夫妻で旅をしていたというのも、きっと、何か訳があるのだろう。

地名には、歴史や物語がある。
  徒(あだ)や疎か(おろそか)に、
   ひらがな地名に変えてはいけない。


(参考図書:「高崎漫歩」「開化高崎扣帖」)


【小万坂】

  


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2009年01月22日

蟹下苑

中央小学校から堰代町へ抜ける、細い坂道がある。

坂下に立って見上げると、今でもあの頃の雰囲気が残っている。

大きく違うのは、坂の途中右手が有料駐車場に変わってしまったことだ。
ここには昔、鬱蒼とした日本庭園があった。
学校の行き帰りに、囲いからはみ出しているクローバーの葉を採って、軸を絡ませて引っ張りっこをしたものだ。

その庭園が、「高崎三名園」のひとつ、「蟹下苑(かにしたえん?)」だと知ったのは、このブログを書き始めてからのことだ。

「蟹下苑」は、貴族院議員だった桜井伊兵衛氏の別荘の庭だったという。(「高崎の散歩道」吉永哲郎氏より)

「高崎三名園」のあと2つは、椿町に今もある「暢神荘(ちょうじんそう)」と、現高崎郵便局の斜め角にあった、銀行家・小沢宗平氏「別宅」の庭園を指すらしいが、残っているのは、「暢神荘」のみということになる。

ちょっぴり寂しい気分になり、ふと思い出したのは、柳川町にあった「松山耳鼻咽喉科」の庭園である。

今は、病院は閉鎖されているが、子どもの頃この病院で扁桃腺を手術で取ってもらったことがある。
その時見た庭園の素晴らしさに、子ども心にも感動した記憶がある。
不思議なことに、大人になってからも夢の中に度々ここの庭園が出てくるのである。
中へ入って、お庭を見せてもらいたい衝動に駆られたが、シャイな性格が邪魔をして訪ねる勇気が出てこない。

塀の外をぐるりと回ってみると、お隣に素晴らしい洋風の庭園を発見した。

ちょうど、ご婦人が脚立に登って薔薇のお手入れをしていたので、勇気を奮って声を掛けさせて頂いた。
聞けば、「松山病院」さんのご親族の方で、ご自分のHP「私の庭へようこそ」も作っておられるという。
春には、しだれ桜も咲いて、緑の芝生とのコントラストが素晴らしいそうだ。
その頃、またお邪魔する約束をして、失礼した。

良い方との出会いにより少し勇気が湧いたので、もう一度「松山病院」に戻り、インターフォンを押してみることにした。

中から出てきたのは、美人の奥様であった。
多少どぎまぎしながら、手術をしてもらった時のこと、この近くに住んでいたことなどを話すと、なんと!この方は昔の我が家のことや父のことをよくご存知であった。

ひとしきり昔話に花が咲き、何となくそわそわしながらお庭の写真を撮らせて頂いた。

池の水は長野堰からの引水なので、この季節は水が来ないのだそうだ。残念であった。

家に帰って写真を見ると、庭園の素晴らしさが、うまく撮影されていなかったのも残念であった。

写真の腕が悪いせいか、それとも、ドキドキしながら撮ったせいだろうか・・・。

   涸れ池に 幾歳月の 思ひ湧き
迷道院


【蟹下苑跡・松山耳鼻咽喉科跡】

  


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2009年01月23日

高崎に眠るロシア兵

宮元町にある「高崎山竜広寺(龍廣寺)」
山号の「高崎山」には、有名な由来がある。

「竜広寺」は、箕輪城主だった井伊直政が和田(高崎の旧称)に城を移した際、箕輪から白庵(びゃくあん)和尚を招請して開山したという。

直政は和田という地名も改めることとし、「松ヶ崎」にするか「鷹ヶ崎」にするか決めかねて、和尚に相談した。
和尚は、「松」「鷹」も生き物は必ず死ぬものだから、「高」の字を用いて「高崎」とするのが良いだろう、と答えたそうだ。
白庵和尚によって「高崎」の地名が決まったことから、「竜広寺」の山号は「高崎山」となったという話だ。

ここ「竜広寺」には、「元ロシア兵の墓」というのがあり、高崎市の指定史跡になっている。

ここに眠る3人のロシア兵は、明治37年(1905年)の日露戦争に於いて捕虜となり、「竜広寺」に収容されてのち亡くなった兵士である。
(詳細は、こちら)
当時、高崎には500人を超える捕虜が、市内の寺院などに収容されていたという。

日露戦争では、高崎第15連隊が旅順港攻撃に参戦し、
3日間に及ぶ「164高地」の激戦で、568人もの犠牲者を出してついに陥落させた。
「164高地」は、その功を讃えて、奇しくも「高崎山」と名付けられたのだそうだ。

「ロシア兵の墓」がある一角は、もともと「陸軍墓地」であった。

現在の国立高崎病院「衛戍(えいじゅ)病院」(陸軍病院)であった頃、ここで亡くなった人218人の墓石が、3人のロシア兵の墓石と共に並んでいる。


「竜広寺」
の片隅に、蝋梅紅梅の花が、ひっそりと並んで咲いていた。

ちょうど、ロシアの兵士達と、日本の兵士達が、敵味方を越えて一緒に眠っているように。

「この日、われわれが集ったのは、恐怖より希望を、いさかいや不和を超越した共通の目的の下に団結することを選んだからだ。あまりにも長い間、この国の政治を窒息させてきた卑小な恨み言や偽りの約束、非難の応酬や使い古されたドグマ(教義)に別れを告げる。」
(バラク・フセイン・オバマ・ジュニア)


(参考図書:「高崎漫歩」「開化高崎扣帖」)

【ロシア兵の墓】

  


Posted by 迷道院高崎at 07:33
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2009年01月24日

高崎にもあった「時の鐘」

「時の鐘」というと、ほとんどの方が埼玉県川越市のそれを思い浮かべるのではないだろうか。

川越は、土蔵造りなどの古い街並みが残されており、街全体が「テーマパーク」のようである。
いつも沢山の観光客で溢れ、活況を呈している。

「町興しは、町残し」の、まさにお手本のような街である。

あー、高崎にもこんなのがあったらなぁ。
と思うが、実は、高崎にも「時の鐘」はあったのである。

右の写真がその証拠である。

場所は、中紺屋町(なかこんやまち)の「玉田寺(ぎょくでんじ)」

「玉田寺」については、グンブロ仲間の弥乃助さんにお任せしよう。

この鐘楼は、もともとは高崎城内西の丸(西郭)にあって、時を報じていたという。

しかし、そこは樹木が多く鐘声がよく聞こえないというので、最初は「玉田寺」の隣の「石上寺」(今は無い)境内に移したのだそうだ。

鐘楼の傍には、小屋もあって、そこには常に5人の鐘つきがいたという。

この鐘楼は度々火災で焼けているそうで、場所を「玉田寺」境内に移して新築されたのは明治14年(1881年)とある。
鐘楼の高さが約11mと、当時としては高い建物なので、火の見やぐらとしても役に立ったようだ。

高崎市民に時を告げていたは、戦時中の「物資供出(きょうしゅつ)」で、人殺しの道具に変身されてしまい、を失った鐘楼も、戦後間もなく取り壊されてしまった。

そして今は、こんな殺風景な景色になってしまっている。→

嗚呼!それにつけても、それにつけても。

(参考図書:「高崎漫歩」)

【鐘楼跡】

  


Posted by 迷道院高崎at 07:06
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2009年01月25日

ぼうず山

高松町にある高崎郵便局北側の堀は、他の場所のお濠と違って、水が湛えられていない。

以前は深くて暗い谷だったが、近年、写真のように整備され、土塁の上や、下の渓谷風の遊歩道を散策できるようになっている。

整備したての頃は蛍もいたりして、旧建設省の「ふるさと手づくり郷土賞」を受賞している。

この道を真っ直ぐ下り、中央小学校の裏門の所を左に曲がったあたりに、昔「ぼうず山」と呼ばれる小山があったらしい。
明治41年(1908年)生まれの父が、「子どもの頃、ぼうず山でよく遊んだ。」と言っていた。

ずっと忘れていたのだが、このブログを書くようになってから、ふと思い出し、調べてみることにした。

「ぼうず山」は、高崎城「角馬出し(かくうまだし)」の土塁跡だという。

「角馬出し」とは聞きなれない言葉であるが、城郭の守備堅固な出入り口だそうだ。
城が敵に攻撃された時、城の門は全て閉ざして守りを堅くすることになる。
だが、形勢を見て城外に撃って出ようとした場合、うっかり郭門(くるわもん)を開けてしまうと、そこから弓や鉄砲を撃ち込まれ、一気に敵が城内に入ってきてしまう。
そこで、城外への出撃の際は、守りに固い「馬出し」から出撃することになる。
「馬出し」の構造の特徴は、
1.外から城内を見通せないように、入り組んだ構造になっている。
2.「馬出し」内の通路は、一度に大勢が通れないように狭くなっている。

そのことにより、敵が城内に攻め入ろうとしても、狭い入口を直角に曲がりながら、1列になって入らざるを得ない。
守る城側は、侵入した敵の横腹から、一人づつ攻撃することができる。
という訳だ。

「馬出し」には、土塁の囲み形状から「丸馬出し」「角馬出し」とがある。

子どもたちの絶好の遊び場だった「ぼうず山」も、戦後、跡形もなく整地され、家が立ち並ぶ詰らない場所になってしまった。

近代の城郭で、「馬出し」が完全な形で残っているのは、兵庫県にある篠山城だけだそうである。
高崎城「角馬出し」は形状的にも美しく、もし残っていたらその価値は計り知れない。
   あぁ、勿体ないことをしたものだ。

もう見ることはできないと思っていた「ぼうず山」が、かろうじて写っている写真を見つけた。

中央小学校長も務めたことのある、郷土史家:田島武夫氏編著「ふるさとの想い出写真集 高崎」(国書刊行会出版)から複写させて頂いた。

(参考図書:「高崎漫歩」「開化高崎扣帖」「高崎城絵図」)

【ぼうず山跡】

  


Posted by 迷道院高崎at 07:21
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2009年02月13日

七士殉職供養塔

「七士殉職供養塔」と聞いて、「あー、あれね。」とすぐ分かる人は、相当のご年配か、相当の郷土史愛好者であろう。

国道17号から「聖石橋」を渡り、最初の信号のちょっと先の右側に立っているのがそうだ。

昭和10年9月にこの付近を襲った台風による豪雨で、低地にある石原町一帯は一面水に浸かってしまった。
(写真提供:(株)国書刊行「ふるさとの想い出写真集 高崎」より)

当時石原には、高崎歩兵第15連隊の将校下士官の住宅数軒があったことから、10人の兵士が選抜されて住民の救助に向かった。

兵士達は、膝まで水に浸かりながら、手をつないで流されないよう目的地まで急いでいたが、その時、烏川碓氷川の合流点付近で堤防が決壊し、濁流に流されてしまったのである。

これにより、殉職した7人の兵士の栄誉をたたえるべく、昭和11年、高崎市民一同により建てられたのが「七士殉職供養塔」である。

ところで、当時まだ国道17号はなかったと言うと、ちょっと意外に思うかもしれない。
国道17号ができたのは、戦後の昭和26年だそうである。
これについては、面白い話が残っている。

この道路は、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーの命令によってできたと言われている。
当時、進駐軍の家族は週末になると軽井沢に出かけて楽しんでいたようであるが、車で高崎市内を通過するときにひどい渋滞に巻き込まれることが多かったので、それを解消するために造らせたというのである。
真偽の程は、わからない。

国道ができる前の写真が、高崎市発行「開化高崎扣帖」(かいかたかさき・ひかえちょう)に掲載されている。

崖の上が「高崎公園」「頼政神社」である。
その下を「下公園」と呼んでいたらしい。
現在の公園の石段や坂道は、その頃の名残であろう。


私の記憶は、「国道から河原に降りたところに貸しボートがあったなぁ」、というところまでしか遡れない。

(参考図書:「開化高崎扣帖」「ふるさとの想い出写真集 高崎」)


【七士殉職供養塔】


  


Posted by 迷道院高崎at 10:15
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2009年02月14日

寝観音(ねかんのん)

聖石橋を渡り、観音山に向かって進むと、「片岡の歴史碑」と書かれた、道祖神のある五本辻に出る。

片岡小学校から真っ直ぐ清水寺の石段へ向かう、いわゆる観音道路ができたのは意外と最近のことで、昭和7年ということだ。

それ以前は、片岡小学校の角を右折して、大きく左折しながら、この道祖神の辻に出てきていたようだ。
その頃、清水寺へ行くには、この辻から「有賀園ゴルフ練習場」の跡地に沿った道を進み、新川に架かる小さな橋を渡ることになる。

今、その橋から右手方向をみると、お堂が見える。

これが、「指出の寝観音」(さしでの・ねかんのん)である。

この「寝観音」は、子どもの夜泣きや、頭痛不眠症など「寝られない」悩みに大変ご利益があるということで、昔は遠来からの参詣者も多かったそうであるが、今はすっかり忘れられてしまったようだ。

土屋喜英氏著「高崎漫歩」によると、ここの観音様にはがたくさん奉納してあり、お願いをする人がそのを借りていき、治った時には新しいを付けて返したという。

閉ざされた扉から中を覗き見ると、奥のガラス戸棚の中に、それらしいが積まれているのが見える。

ところで、片岡の地域には、指出(さしで)姓を持つ人が多い。

内山信次氏著「新撰高崎三十三観音」によると、大同2年(807年)坂上田村麻呂の命を受けた指出藤太夫という人が、この地に十一面観音を、翌3年(808年)清水寺に千手観音を造立して、この地に土着したのだという。

実はもうひとつ面白い話が伝わっている。
藤太夫の娘姉妹が都から下って来て、の姫が「寝観音」に、の姫が山に登って「清水の観音」になったのだという。

さらに、別のこんな言い伝えもある。
「指出の観音様」は三人姉妹で、姉と妹がいたという話だ。
そして、妹が清水寺の千手観音、姉は元島名にある福聚堂(ふくじゅどう)の千手観音になったというのだ。

いずれにしても、いかに名前が「寝観音」とはいえ、このまま寝かせておくには実にもったいない「観光資源」である。
しかし、指出家個人の持ち物ということもあるが、この「観音堂」は通りから奥まっていて、ちょっと気づきにくい。

できれば高崎市として、入口に案内看板でも立てさせてもらい、観音山「石段コース」の名所として紹介してほしいものである。


  


Posted by 迷道院高崎at 07:16
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2009年02月17日

天狗も住んでた!高崎

観音通りの「片岡の歴史碑」の五本辻を、高崎高等学校の方へ向って歩いて行くと、「厄除け地蔵尊」という看板の立っているお堂がある。

お堂の額には「弐佛堂」(にぶつどう)と書かれているのだが、掲示されている看板には「三仏堂の沿革」と書かれた、妙なお堂である。

そのお堂の手前に、「全国三大天狗 伊津奈大権現」と書かれた看板が立っている。 →

日本三大天狗というのは、
◆迦葉山 弥勒寺(沼田)
◆鞍馬山 鞍馬寺(京都)
◆高尾山 薬王院(八王子)
のはずだが?はて?と思いつつ、住宅街の小路を山に向かって歩いてみた。

すると、ほどなく「伊津奈大権現」と書かれた赤い鳥居と、急な石段が現れる。
石段を上がると、割と新しい建物があり、そこが「伊津奈大権現」の社である。

社は最近立て替えたものであろうが、昔からこの地の氏神として「飯綱社」というのがあったようだ。
以前は、鳥居に「伊津奈大天狗」と書かれていたという。

しかし、「三大天狗」の社にしては、いかにも小さい。
すると、近くに住んでいる方が声をかけてくれた。

聞くと、社の竣工時に高尾山のお坊さんが来ていたという。

高尾山といえば「日本三大天狗」のひとつであるが、それとどんな関係があるのだろう?

ヒントは「伊津奈(いづな)」という名前にあった。
高尾山薬王院のご本尊は、「飯縄(いづな)大権現」という。
字は違うものの、同じ「いづな」である。
おそらく、何らかの経緯で高尾山の天狗を勧請したのであろう。

ところで、高崎には天狗を祀っている神社がいくつかある。

そのひとつが、多中の琴平神社である。
ここでは、烏天狗の像がちょうど狛犬のように、石段の下で神殿を守っている。

この他、並榎町常仙寺の道了尊、高崎神社の猿田彦神社、根小屋の白髭神社、下小鳥の幸宮神社、片岡の秋葉神社天狗さまを祀っている。

「天狗」は日本神話の「猿田彦命」(さるたひこのみこと)だという。
「猿田彦命」は、高天原から天孫「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が天下る時に、道案内をしたという神である。
後に、その天下った民族が関東以北の蝦夷征伐をしていくのである。

高崎の各地にいた「天狗」、蝦夷征伐の途上に清水寺を開基した「坂上田村麻呂」、常世の国へ弾き飛んだ小祝神社の「少彦名命」
一本の糸で、つながってきたではないか!





【伊津奈大権現】
※和田橋を直進して護国神社の所から入ると近いです。

  


Posted by 迷道院高崎at 21:56
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2009年02月19日

めめめ?

石原町「小祝神社(おぼりじんじゃ)」に隣接して、「石昌寺」がある。

「石昌寺」「小祝神社」の別当寺である。
(別当寺:神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺―Wikipedia)

長い参道を通って門内に入ると、
右手に「薬師堂」がある。 →

その「薬師堂」の引き戸の内側に、面白いものが貼ってあった。

「め」とか「目」とかの字がたくさん書かれている紙である。
おそらく、薬師様に眼病の平癒を願って、信徒さんが貼ったものであろう。
高崎市では、あまりお目にかかることはなかったのだが、日本各地には「目の薬師」という、眼病にご利益のある薬師様が沢山ある。
有名なのは、東京「新井薬師」であろうか。
川越の、「時の鐘」の奥にある薬師様もそうだ。

実は、この「石昌寺」「薬師様」と、「小祝神社」の祭神「少彦名命(すくなひこなのみこと)」とは、面白いつながりがある。

先に出てきた「神仏習合」という考え方は、仏教伝来の際に日本古来の神様を否定する訳にもいかず、「日本の神様は、本来の仏様が姿を変えて現われたのだ。」とこじつけた「本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)」に基づいている。
それによると、「少彦名命」の本地(仏)は、「薬師如来」ということになっている。

また、「薬師」はふつう「やくし」と読むことが多いが、「くすし」とも読むのである。
「くすし」とは、「薬を用いる師」という意味で「医者」のことであるが、神代に於いては「薬師の神(くすしのかみ)」というのがいて、医療や呪(まじな)いの法を定めたという。

そして、日本にはその「薬師の神」が二人いて、一人が「大己貴命(おおなむちのみこと)」、もう一人がご存じ「少彦名命」である。
しかも、しかも、「大己貴命」とは、「少彦名命」と一緒に国造りをしたという「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の若い頃の名前なのである。

 いや~!ほんーっとに、
    高崎って面白い街ですねー!


     ・・・って、もしかしてわたしだけ?

【石昌寺】
  


Posted by 迷道院高崎at 22:11
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2009年02月21日

古代の国際共生文化

このブログで度々登場する観音道路の「五本辻」、ここに「片岡歴史の碑」が建っている。

平成元年に、市立片岡中学校同窓会により造立されたこの碑には、こんなことが書かれている。

「片岡の地には縄文時代からの永い歳月、多くの人々の生活と夢がある。
小祝神社の格の高さから考えると、古代はかなり有力な氏族がいたものと思われる。
(略)
古代の片岡郡は、現在の板鼻・八幡・豊岡・乗附・石原・寺尾・南八幡を含む烏川右岸の広大な丘陵地帯に広がっていたものと推定される。」


碑文にある「片岡郡」に含まれる地域を見ると、まさに「片方が岡」である。
烏川右岸の「片岡郡」に接する郡は、「碓氷郡」「甘楽郡」「多胡郡」「緑埜郡」となっており、いずれも丘陵に沿った地域である。

ところで、「コロボックルは高崎にいた」でも書いたのだが、古代、この辺にアイヌ民族がいたことは地名にも残っている。
「乗附」(ノツケ)は、「野の果て」という意味のアイヌ語だという。確かに烏川・碓氷川沿いの広い野が丘陵に突き当たっている。
浄水場のある「若田」(ワッカタ)「水を汲むところ」、安中の「野尻」(ノシリ)「突き出たところ」というアイヌ語だとも言う。

一方、大陸からの渡来人が住んでいたという地名も残っている。
「甘楽」「韓(から)」つまり大陸の半島を指し、「多胡」「胡」も大陸から入ってきたものや人を指す。

上毛かるたでは「関東と信越つなぐ高崎市」だが、古代の高崎はもっとスケールの大きな「国際共生都市」だったようだ。

一度、高崎を会場に「アイヌ文化と大陸・半島文化交流会」とでもいうものを、開催してみてはどうだろうか。

「競争」の欧米文化に限界が見えた今こそ、「共生」の日本文化を発信する意義があるのではないだろうか。

【片岡歴史の碑】

  


Posted by 迷道院高崎at 23:31
Comments(5)◆高崎探訪

2009年02月24日

あった!お城だ!

←どう見たって、お城だ!

なんで? えっ? なんで?

玄関の方へ回ってみた。↓



武家屋敷のような立派な門には、篆刻文字で「並榎館」と刻まれた、これまた立派な看板に、「丸に立ち沢瀉(おもだか)」の家紋が描かれている。↓

う~ん、入りずらい・・・。

向かいの酒屋さんに飛び込んで、どんな方が住んでいるのか探りを入れてみた結果、とりあえず怖い方ではなさそうなので、意を決して恐る恐るチャイムを押してみた。

ややあって、中から「はーい、どなたですか?」と女性の声がした。
「通りがかりの者です。」と答えてから、自分でも可笑しな言い方だとは思ったが・・・。
ともかく、何とか玄関先で奥さまにお話を伺うことができた。

聞けば、ここのご先祖様は箕輪城主長野家の家臣であったが、永禄9年(1566年)箕輪城が武田信玄によって落城した時、ここ並榎の地に落ちのびて来たのだという。

数年前に亡くなったご主人が、家の歴史を後世に残したいというお気持ちで、お城を模した3階建ての建物を造ったのだそうである。

お話を聞いている内に、そのご主人は市立第2中学校の先生であったこと、ちょうど私が通学していた時期であったことが分かった。
苗字が「清水」さんであることから、私は一人の先生の顔を思い出していた。
「もしかして、メッサーシュミットで学校に来ていた清水先生ではないですか?」と聞くと、

「よく、知ってますね。そうです、メッサーシュミットに乗っていました!」

とにかく、一風変わった先生であった。
真面目な先生方からは疎んじられていたようだが、本人は全く意に介していない風で、飄々としていた。

そんな格好よさが不良少年達からも絶対的な信頼を得ていた。
写真を見ると、今、巷間人気の白洲次郎に、どことなく似てはいないだろうか。

私が1年上の生徒に便所に連れ込まれて殴られた時、大体の先生は「困ったことに・・・。」という感じだったが、清水先生だけが「相手は強かったですか?」と聞いたのを、懐かしく思い出した。

高台にある近くの「並榎山常仙寺」から眺めると、清水先生のお城が、観音山丘陵を背にと立っている。
これもまた、高崎の名所として、いつまでも、いつまでも、残っていてほしい景色である。



【並榎館】

  


Posted by 迷道院高崎at 21:11
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2009年02月27日

なんじゃ、これ?

清水先生のお城から、「君ヶ代橋」に向かって歩くと、並榎町の公民館と児童公園がある。
「なんじゃ、これ?」は、公園の前にひっそりと置いてある。

一見、銅像を盗まれた土台石みたいだが、これが架け替え前の「君ヶ代橋」親柱だそうである。

隣にある説明碑には、「君ヶ代橋」の名前の由来などが記されている。

では、「君ヶ代橋」と呼ばれる以前は何という名前だったのであろう。

文献によると、「常橋(じょうばし)」という名前で呼ばれていたようである。
「常橋」という名前もまた面白い。

実は、江戸時代、ここには「仮橋」というから、ほんの簡単な橋が架かっていたようだ。
もっと前は橋もなく「越川(こしがわ)」と言って、旅人は自分の足で川を渡ったり、川越人足の世話になっていたのであろう。

やがて、中山道が開けて人馬の往来が多くなったので「定橋(じょうばし)」を架けたとあるが、これが「常橋」の名の由来と思われる。
当時は、旅人から「橋銭」という通行料金を取っていたようで、まるでレインボーブリッジ並みである。
驚くことに、明治11年(1878)の架け替えで「君ヶ代橋」が国管理となるまで、「橋銭」は続いていた。
明治7年(1874)に開校した「豊岡小学校」の創設資金に、この「橋銭」の年収300有余円を充てたというから大したもんだ。

江戸時代に話を戻すと、この「常橋」の下流には「筏場(いかだば)」があり、信州権田あたりから伐り出した木材を、ここで筏に組んで江戸に送ったのだそうだ。

日本全国に、「何とか八景」というのがあるが、ここ並榎にも「並榎八景」というのがあって、その中に、「筏場の夕照(せきしょう)」というのがある。
絵には「定橋」らしき物が描かれているが、ここからさぞかし美しい夕日が眺められたのであろう。
(図:あかぎ出版「図説・高崎の歴史」より)

明治11年(1878)の「君ヶ代橋」は木橋だった。
この橋は、明治43年(1910)の大水害で崩れ落ち、写真は大正時代の風景である。
左側に見える森は、現在の並榎町、「護念寺」付近であろうか。
(写真:国書刊行会発行「ふるさとの思い出写真集 高崎」より)

新しく架け替えた橋も、まだ砂利を敷いた木橋であった。
昭和初期の写真だそうだが、、人、大八車、自動車が混然となって、もうもうたる土埃の中を渡っているのが分かる。
(写真:国書刊行会発行「ふるさとの思い出写真集 高崎」より)

昭和6年(1931)、「君ヶ代橋」はやっと木橋から鋼橋に架け替えられた。
この鋼橋の欄干の親柱が、児童公園前に飾られているという訳だ。
(写真:田島武夫著「高崎名所百選」より)

ひとつの橋にも、歴史があり、運命があり、
人々の暮らしがある。
この親柱を残してくれた先輩に、心より感謝申し上げよう。



【君ヶ代橋親柱】


  


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2009年02月28日

五輪坂の名庭園

上るのは大変だが、下るのはあっと言う間の急坂という意味なのだろうか、「あっと言う間の五輪坂(ごりんざか)」と言われていたらしい。

「君ヶ代橋の親柱」から並榎町西の信号を渡ると、右手前方に見える右カーブの上り坂が「五輪坂」である。

「五輪坂」の名前の由来は、諸説ある。
その昔この辺りに五輪の塔が並んでいたからとか、源頼朝が上州三原の巻狩りの際にこの辺りに陣を敷いたので「御陣坂」が正しいとか、「あっ」という間に下ってしまうので一銭の半分で「五厘坂」だというのまである。

「五輪坂」を上って真っ直ぐ行くと、左側に「護念寺」がある。

だが、門構えにしても、建物にしても、どうもお寺という雰囲気ではない。

恐る恐る中に入ってみると、境内というよりも庭園に近い。



この「護念寺」、意外と新しいお寺で、昭和20年(1945)頃この地に構えたようだ。
それ以前はというと、あまりはっきりした資料が見つからない。

「高崎開化扣帖(ひかえちょう)」金井恒好氏は、
「五輪坂の崖上に歌川町の小島家の別荘があった」と書いている。
浅間山を遠望するという意味であろうか、「望浅閣」と名付けられたこの別荘は、大正年間から戦前まで、高崎有数の高級料亭として賑わったとある。
年代から言っても、庭園の造作から言っても、この「望浅閣」の跡地に「護念寺」を構えたと思ってよいであろう。

そう思ってみれば、奥まった数寄屋造りの居宅も、それらしい趣が感じられる。







残念なことは、折角の名庭園が、あまり手入れされていないことである。
法人の持ち物とあれば如何ともし難いが、高崎の貴重な「観光資源」となることは間違いない。
何とか整備できないものかと思いながら、庭園を後にした。

【五輪坂】

  


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2009年03月02日

崖の上の鬼城先生

高崎市鞘町(さやちょう)に「村上鬼城先生旧居跡」の記念碑が建っている。
街なかに住んでいる人には、もうお馴染みのものであろう。

村上鬼城は、小林一茶と並び称されるほど有名な俳人で、今さら私が説明するのもおこがましい。

おこがましいが、ほんのちょこっと逸話だけ・・・。

鬼城は8歳の時、家族とともに江戸から高崎に移ってきたが、ここで波乱万丈とも言える人生を送ることとなる。

幼少からの耳の持病に悩まされ、人一倍努力したにも拘らず、軍人、政治家、弁護士の職を次々と諦めざるを得なくなる。
やっと高崎裁判所代書人の職に就いたが、ここでも耳が不自由なために依頼人が付かず、職を解かれてしまう。
この間、二男八女の子を持っていた鬼城は、困窮の極みであったようだ。

その状態を知った中央俳壇の名士達が、裁判所に掛け合った結果、鬼城は再び復職することができたという。
それまで高崎裁判所は、「そんな偉い人だとは知らなかった・・・」らしい。

しかし、昭和2年、またまた不幸が鬼城を襲い、鞘町の居宅は火災に遭って全焼してしまう。
途方にくれる鬼城に手を差し伸べたのは、またしても俳壇の仲間や、弟子たちであった。
その助力を得て、鬼城並榎町の崖上に新しい居宅を構えることとなる。

前回ご紹介の「五輪坂」を上り切って右へ曲がると、「末日聖徒イエス・キリスト教会」がある。

道の反対側に、写真のような細ーい路地があって、そこが「崖の上の鬼城先生」の家への近道である。


もっとも、そんな細い道に入り込まずとも、そのまま道なりに進んで行けば、突き当りの電信柱に大きく「鬼城草庵」への案内看板が出ている。

この「鬼城草庵」こそ、村上鬼城鞘町の旧宅から越してきて、晩年を過ごした居宅である。
鬼城はここを「並榎村舎」と命名し、自らの俳句活動や弟子たちの指導に努めた。

当時の家屋が、そのままの佇まいで残っているのが嬉しい。

今は現代的な住宅に囲まれているが、鬼城がこの家に住み始めた頃は、周りは田畑で、日当たりも見晴らしも抜群であったという。
鬼城自身、「榛名山の裾はわが家の門前まで来ている。」と喜んだと伝わっている。

「鬼城草庵」の2階にある書斎も、当時のまま残されている。

そう、そう、昔はどの家もこんな部屋だったなぁと、懐かしさが込み上げてくる。

廊下からは、かろうじて当時の眺望を想像することができる。

ところで「鬼城」という雅号の由来であるが、これは故郷、鳥取県若桜町(わかさまち)にある「若桜城」の別称「鬼が城」からとったのだという。
鬼城の父は鳥取藩江戸屋敷住まいの武士であったが、廃藩置県を機に自ら町民となり、群馬県役人として赴任してきたのである。

さて、いつまでもこのまま残したい「鬼城草庵」であるが、現在は鬼城のご子孫が、すべて私財で守ってくださっている。
せめて、光熱費、資料のメンテンナンス費用だけでも、高崎市で補助できないものであろうか。
また高崎市民としても、折に触れ「鬼城草庵」を訪れて欲しいものである。
入館料500円が、貴重な「観光資源」存続のための糧となる。

「鬼城草庵」 
高崎市並榎町288  Tel.027-326-9834
訪れる際は曜日を問わず、事前に電話予約を。


  


Posted by 迷道院高崎at 21:40
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2009年04月12日

将軍塚の桜

滝の慈眼寺のしだれ桜が、そろそろ盛りを過ぎる頃、すぐ近くの「将軍塚」の桜が満開になる。

「将軍塚」は、古墳である。

古墳上には「島名神社」があり、祭神は「上毛野君(かみつけぬのきみ)」の祖と言われる「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」の孫、「彦狭島王(ひこさしまおう)」である。(あぁ、ややこし)

「彦狭島王」は、上毛野国造(かみつけぬのくにのみやつこ)に任じられ、東国に赴任する旅の途中で病死してしまったという不幸な方だ。
その死を悼んだ東国の人々が屍を担いで上毛国へ運び、葬ったのが「将軍塚古墳」だと伝えられている。
もっとも、高崎市石原町三島塚古墳がそうだという説もある。

そういえば、この付近にはやたらと「島」のつく地名が多い。
「島名神社」のある元島名町、もうひとつの「島名神社」がある島野町、そして京ヶ島町・・・、何かつながりがあるのだろうか。

墳丘上には、万朶(ばんだ)の桜に抱かれるように、「殉国の碑」が建っている。

碑の裏面には、西南戦争、日清・日露・日中戦争、そして太平洋戦争において京ヶ島地区から召集され、戦死した143人の名前が刻まれている。
そのほとんどは、20代、30代の若者である。
最年少は16歳、最年長でさえ46歳だ。
そういう時代だったのである。

碑文の最後にはこう記されている。
「平和で豊かな現代の日本をふりかえりみるとき、
 英霊をはじめ遺族、地域の人々の物心両面にわたる
 多大な犠牲を思わないわけにはいきません。
 ここに改めて、平和であることの大切さをかみしめ、
 世界の恒久平和に向けて、協力努力していきたいと誓うものです。」


さて、ここのところ、テポドンにかこつけた軍事演習、海賊退治にかこつけた海外派兵、果ては、撃たれる前に撃ってしまおうという物騒なことを言い出す国会議員まで出ている。
裏では、こそこそと、しかし着々と平和憲法改変に向けて動き出している。

いったい、人間は、いつになったら賢くなれるのだろう。


【高崎市文化会館裏庭にて】【慈眼寺の参道にて】

【将軍塚古墳】

  


Posted by 迷道院高崎at 22:14
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2009年05月04日

大笠松と渡し舟

「萩原の大笠松」というのを、見たことがおありだろうか。

初めて見る人は、その姿が一本の松からなっていることを、俄かには信じられないかも知れない。

高崎・駒形線を駒形方面に向かい、昭和大橋手前の信号を左に入ったところに「萩原の大笠松」はある。
樹齢は推定450年、枝張りは南北18m、東西20.5mだそうである。

こんな大きな松であるが、もとは前橋城主・酒井雅楽頭(さかい・うたのかみ)秘蔵の鉢植えだったという。
それを、この家の祖先八木源左衛門が拝領して庭に植えたところ、ぐんぐん大きくなり、そのために家を3回ほど後ろに退けたというのだから驚きだ。

ここから、利根川に向かっていくと「利根川自転車道」がある。
「江戸川自転車道」を経由して東京ディズニーランドまで行けるという、
170kmの大規模自転車道だ。

逆方向に前橋方面へちょっと行ったところに、「萩原・公田(くでん)の渡し跡」の碑がある。

昭和大橋ができる昭和四十七年(1972)まで、ここに渡し舟があったのである。

渡し舟とは言っても、上毛かるたに「利根は坂東一の川」と詠われる暴れ川のそれである。
とても、ぎっちらこ、ぎっちらこと櫂を漕いだり、棹をさしてという訳にはいかない。
両岸から綱を張って、それを手で手繰りながら渡っていたという。

自転車道の脇に、コンクリート製の基礎のようなものがある。

もしかすると、これが綱を張った支持物なのだろうか?
それにしては、川からずいぶん離れているので、違うかも知れない。

もっとも、昔はもっと水量が多く、川幅一町四十間(約180m)、水深三丈(約9m)あったと石碑には書いてある。

明治十年(1877)頃には、舟12艘を並べた上に板を敷いて「舟橋」にしたこともあるが、度重なる流失で結局渡し舟に戻したようだ。

東京には、今でも渡し舟が活躍している所がある。
江戸川の葛飾柴又から千葉県松戸市をつなぐ「矢切りの渡し」である。

片道100円で住民の生活渡船となっているばかりか、観光の目玉スポットとして多くの人の心を惹き付けている。
細川たかしのヒット曲のおかげもあるかも知れないが。

高崎の萩原町は、その昔、新潟と江戸をつなぐ三国古道の道筋にあった。
三国古道は、倉賀野・高崎を通る現在の三国街道が表街道になってからは、佐渡金山奉行や流人など、人目を避ける人々の通る裏街道として利用されたらしい。

この辺りの自転車道を「三国古道自転車道」とでも命名し、もういちど、「公田の渡し」を復元したら、歴史好きの人を呼び込めると思うのだが・・・。

【萩原の大笠松】

  


Posted by 迷道院高崎at 07:51
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2009年06月12日

粕沢の笠守稲荷

「粕沢の立場茶屋」があったとされるドラッグストア・ウエルシアの道の反対側、その奥まったところにひっそりと赤い鳥居が見えます。

鳥居には「正一位 笠守稲荷大明神」とあります。

「かさもり」というお稲荷さんは全国にあるようですが、本家本元は大阪府高槻市にある「笠森稲荷」だそうで、その地の豪族「笠氏」が創設したといわれています。

東京都台東区谷中にあるのは「瘡守稲荷」と書き、「瘡」つまり皮膚病の治癒に霊験があったようです。
江戸時代、谷中の近くには有名な色里「吉原」がありました。
色里につきものなのは、梅毒などの性病です。
罹患すると「瘡」ができて悩まされるということから、谷中の「瘡守稲荷」は、病気予防・治癒祈願の参拝者で大層盛んだったそうです。

さて、粕沢の近くには倉賀野宿があり、そこには沢山の飯盛女達が働いていました。
おそらく、「瘡」で悩まされていた人も多かったことでしょう。

「粕沢の笠守稲荷」がいつ頃祀られたか定かではありませんが、江戸との水運交流が盛んだった倉賀野河岸です。
江戸谷中「瘡守稲荷」の評判を聞いて、この地に勧請したことは想像できます。

「笠守稲荷」の境内に、石の「お大師様」がちょこんと座っています。
すべては、この「お大師様」がご存知なのでしょう。


【笠森稲荷】

  


Posted by 迷道院高崎at 08:04
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2009年06月28日

タヌキの通り道を・・・

タヌキの通り道を上がっていくと、そこが岩鼻代官所跡地です。

現在は、日本化薬の社員寮になっているので、「外来者の通行および駐車は一切禁止します。」となっていますが、タヌキならいいようです。

ということで、タヌキに化けて入り込んでみました。(不法侵入になるのでしょうか?)

石垣の道が、雰囲気あります。

今にも、坂の上から「これ、そこな町人!いずこへ参る!」と、六尺棒を持った門番が現れそうな感じです。


左側に現れる石段は、代官所時代から残る唯一の史跡、天神山に上る石段です。

天神山山上には、天満宮の社と、陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所殉職者之碑があります。

タヌキの通り道の坂を登りきると、右側に大正ロマンを感じさせる瀟洒な建物があります。

これが、「たかさき都市景観賞」も受けている、旧陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所の将校倶楽部です。

現在は、日本化薬の福利厚生施設・高崎クラブとして使用されています。
天神山とともに、歴史遺産として、いつまでも残しておいてほしいものです。

岩鼻代官所岩鼻県庁跡の広大な敷地が陸軍用地として接収されたのは、明治十二年(1879)のことです。
現在の日本原子力研究所、群馬の森、日本化薬高崎工場を合わせた広大な土地に、陸軍火薬製造所が開設されたためです。
しかしその後、この火薬製造所は、頻繁に爆発事故を起こします。

そのお話は、またの機会に。

【タヌキの通り道】

  


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2009年07月01日

浅間か岩鼻か?

群馬の森の中程に、「我が国ダイナマイト発祥の地」と刻まれた大きな石碑があります。

裏側の碑文には、次のように記されています。

「ここ、旧岩鼻火薬製造所の歴史は、明治十二年(1879)に始まる。
富国強兵、産業の振興をはかり、(略)当時としては唯一の動力源である水車の利用に適し、水利と水運に恵まれ、東京にも近いこの地に建設を決定した。」


群馬県の明治百年記念行事として、昭和四十八年(1973)「群馬の森」が開設されたのに合わせ、旧岩鼻火薬製造所の従業員、遺族、関係者の有志一同により、この碑が建立されました。

当初、黒色火薬を製造していた岩鼻火薬製造所が、国産ダイナマイトの製造を開始するきっかけとなったのは、明治三十七年(1904)の日露戦争・旅順攻略です。

難攻不落のロシア要塞を陥落できたのは、当時、なけなしの外貨で輸入をしていたダイナマイトの威力でした。
そこで、明治三十八年(1905)、岩鼻火薬製造所国産ダイナマイトの製造が開始されることになります。

岩鼻という地名は、断崖が鼻のように川に突き出ているところだからといわれています。

岩鼻烏川井野川が合流する地域で、水量は豊富でした。
今でも、写真のように、合流点は大河の様相を呈しています。
明治初期には倉賀野河岸もまだ盛んでしたから、川面を舟が行き来する姿も見られたのでしょう。

豊富な水量はまた、不慮の爆発事故や火災に備える意味でも、必要だったのかも知れません。
事実、明治十二年(1879)の創業以来、昭和七年(1932)までの爆発事故で28名の犠牲者を出しているそうです。

昭和七年には、その殉職者慰霊のため、岩鼻代官所跡の天神山山上「殉職者之碑」が建てられました。

また、近くの観音寺には、殉職された方々の遺骨や、遺品を拾い集めて供養した「殉職者供養塔」も建てられています。

しかし、手厚い慰霊や供養にも関わらず、その後も爆発事故は続きます。
昭和十年(1935)代には浅間山もよく爆発したようで、高崎近辺の人々は「ドーン!」という爆発音がすると、外へ飛び出して「浅間か岩鼻か?」を確かめたといいます。

爆発事故も悲惨ではありますが、爆発しなかったために自らの命を絶った人もいます。
明治二十七年(1894)に勃発した日清戦争で、岩鼻火薬製造所に火薬の増産命令が下ります。
全力を尽くして製造したにもかかわらず、いくつかの弾丸が戦場で不発弾となってしまい、初代所長の町田実秀は責任をとって自刃したといいます。

観音寺の墓地に眠っていると聞き、お墓を探してみましたが、見つかりませんでした。
お寺の奥様にお聞きしても分からなかったので、もしかするともう無縁仏として、始末されてしまったのでしょうか。

観音寺の墓地には、初代岩鼻代官吉川栄左衛門の墓があり、市指定史跡になっています。

町田実秀の墓もそうあってほしかったものです。


さらに言えば、旧陸軍岩鼻火薬製造所跡地全体を、現在非公開の当時の施設も含めて、平和を考えるための戦争遺跡として整備・保存し、後世に語り継いでいってほしいとも思います。

最後に、岩鼻火薬所の爆発事故を体験した人の話をご紹介しましょう。
(高崎市史民俗調査報告書第七集より)
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大正十二年(1923)の関東大震災、九月一日ですけどね、
その次ぐ年の九月の一日には、岩鼻の陸軍の火薬製造所、
あの火薬庫んなかにね、火が入ったっていうことで、
大変な騒ぎがあったんですよ。

自分たち、小学校の頃でね、ちょうど朝礼で校長先生の話ぃ聴いてたら、
そこへ、火薬製造所の方から知らせてきたんです。

自転車で夢中で来てね、早く子どもたちを家へ帰せってんですよ。
そいでね、早くしろ早くしろって。
四里四方はだめだからって。

「それっ」てんで、みんな岩鼻の人たちもね、
ぞろっこぞろっこね、倉賀野まで逃げてきたんですよ。

で、おれたちも、家へ帰らないで高崎の方ぃね、
並木の方へ逃げろってんで、
それで、小学校からさぁ、ぞろぞろ逃げてったん。

しょうがねぇから、もうみんな一所懸命逃げたんだけど、
くたぶれちゃって、正六ぐれえまで行って、
もうだめだってんでさ、そこんとこで休んでた。

そうしたら、こんだ、消防組合のほうからね、
火が消えたから、みんな家へ帰るようにってんで、
それで帰ったんだけど。
(倉賀野町下町 大正五年生まれ)
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(参考図書:「高崎の散歩道 第三集」)


【ダイナマイト碑】


【天神山・観音寺】

  


Posted by 迷道院高崎at 06:55
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