2009年06月28日

タヌキの通り道を・・・

タヌキの通り道を・・・タヌキの通り道を上がっていくと、そこが岩鼻代官所跡地です。

現在は、日本化薬の社員寮になっているので、「外来者の通行および駐車は一切禁止します。」となっていますが、タヌキならいいようです。

ということで、タヌキに化けて入り込んでみました。(不法侵入になるのでしょうか?)

タヌキの通り道を・・・石垣の道が、雰囲気あります。

今にも、坂の上から「これ、そこな町人!いずこへ参る!」と、六尺棒を持った門番が現れそうな感じです。

タヌキの通り道を・・・
左側に現れる石段は、代官所時代から残る唯一の史跡、天神山に上る石段です。

天神山山上には、天満宮の社と、陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所殉職者之碑があります。

タヌキの通り道を・・・タヌキの通り道の坂を登りきると、右側に大正ロマンを感じさせる瀟洒な建物があります。

これが、「たかさき都市景観賞」も受けている、旧陸軍造兵廠岩鼻火薬製造所の将校倶楽部です。

現在は、日本化薬の福利厚生施設・高崎クラブとして使用されています。
天神山とともに、歴史遺産として、いつまでも残しておいてほしいものです。

岩鼻代官所岩鼻県庁跡の広大な敷地が陸軍用地として接収されたのは、明治十二年(1879)のことです。
現在の日本原子力研究所、群馬の森、日本化薬高崎工場を合わせた広大な土地に、陸軍火薬製造所が開設されたためです。
しかしその後、この火薬製造所は、頻繁に爆発事故を起こします。

そのお話は、またの機会に。

【タヌキの通り道】


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Posted by 迷道院高崎 at 07:52
Comments(8)◆高崎探訪
この記事へのコメント
この看板いつも気になっています。中はそうなっているんですねー。
いいものは、いつの時代でも何かを語りかけてくれます。
私もタヌキになって見に行ってみようかな?
Posted by ぼらぼら  at 2009年06月28日 10:36
>ぼらぼらさん

群馬の森にも近いですし、岩鼻監獄跡にも近いですから、お散歩ついでにいかがですか?
それにしても、タヌキの通り道は、大笑いですよね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年06月28日 20:36
群馬の森で幽霊が出るといううわさも、爆発事故と関係あるんでしょうか・・・?
夏ですね。
Posted by kannonet  at 2009年06月28日 21:18
>kannonetさん

コメントありがとうございます!
そんなうわさがあるんですか?
爆発事故の殉難者は、手厚くご供養されているようなので、別人かもしれませんね。
それにしても、おーこわっ!
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年06月29日 07:34
日本のダイナマイトトップメーカーっていうのもすごいですね。
知人の娘さんが日本化薬に勤めてます。
ちょくちょく爆発事故起こすのは中国火薬ですね。高崎市吉井町の・・・・・
吉井の防衛省には高崎市が吹っ飛んでしまうくらいの火薬が貯蔵されているとか。

この間の「高崎フィルコンサート」に場違いな、筋違いな御仁があいさつでした。
せっかくのクラシックなのに・・・・・
Posted by 昭和24歳昭和24歳  at 2009年06月29日 13:06
>昭和24歳さん

碑(いしぶみ)の路を行くと、その火薬庫の裏に出ますね。
爆発事故がちょくちょくあるんじゃ、気をつけなくっちゃ。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2009年06月29日 21:35
群馬の森が出来る前のあの付近は、木々が鬱蒼としていて奥に古~い大きな建物がありました。いかにも幽霊がでそうな建物で、見るからに怖かったです。
小学校の時、怖いモノ見たさで探検をしようとしましたが、「幽霊が出るから行っちゃいけない」と祖母にいわれていたので紫文はだめでしたが、まわりの友達もみな同じで親にとめられて結局探検はできなかったですね。
その祖母によれば、戦前はよく爆発があり、手足が火薬所から飛んできたりしたそうです。
ホントかどうかはしりませんが…
母も戦時中、小学校のとき動員されて火薬所で働いたそうです。
小さい羽二重の布に火薬をいれてそれを縫っていたそうです。
母が言うには風船爆弾に使うモノだったとか。
ホントかどうかはわかりませんが…

天神様なつかしいですね。
そのまわりは遊び場のホームグラウンドでした。
日本化薬の団地は紫文が四年生くらいのときにできたと思います。
ですよね?キレイズキさん。
Posted by 紫文  at 2010年11月01日 02:42
>紫文師匠

7日はお仕事で来られないとのこと、残念ですね。

群馬の森の奥には、まだ火薬所当時の建物が残ってますよね。
整備して、歴史遺産登録すればいいのに、と思っているのですが。
あ、でも幽霊にとっちゃ迷惑ですかね。

風船爆弾は、高女でも作っていたといいますから、火薬は岩鼻から供給してたかも知れませんね。
7日に、先生方に聞いてみます。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎  at 2010年11月01日 06:56
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