いつも起点にする「満寿池」から権田方面へ300mほど行った所に、「椿名(つばきな)神社」の看板が建っています。
その向かい側が参道です。
70mほど進むと、趣きのある石橋が架かっていました。
橋の名前はないようですが、架橋の年月や架けた人の名前は刻まれています。
また少し行くと、片側にだけ御神燈が建っています。
明治三十六年(1903)のものですけど、この頃は75歳で御神燈を寄進したくなるほどの長生だったんですね。
突き当りが、「椿名神社」です。
入ったすぐ左の手水鉢の後ろに、高崎市指定天然記念物「椿名神社の大イチョウ・大ケヤキ」の看板があります。
「大イチョウ」は、社殿の左隣に聳えています。
400年の間に、イチョウと杉が一体化しちゃったようです。
すごいなぁ。
史跡看板は、境内へ入って右の「参道改修記念」碑の隣に建っているんですが・・・、
なぜか、「大ケヤキ」だけの看板になっています。
しかも「このケヤキ」って、まさかこの切株じゃないですよねぇ。
「大ケヤキ」は、社殿の後ろです。
看板は、「社殿裏のケヤキ」と書き直すか、「大ケヤキ」の根元に移すかした方がいいんじゃないでしょうか?
さて二つの看板に、「椿名神社」は「行前」という所から遷したと書かれています。
「行前」の元宮が火災で焼失したからと言うんですが、その火災の原因が二つの看板で微妙に異なっていて、片や「戦火」、片や「野火」となっています。
このことは、椿名神社社掌を兼ねていた八幡八幡宮社掌・竹林豊三が、昭和六年(1931)に作成した由緒書を見たら分かりました。
ということで、現在地に遷したのは「兵火で焼失」したためで、その後、旧社地が「野火で焼失」したのでした。
その旧社地「行前」とはどこなんでしょう。
倉渕村の字図を見てみましょう。
「行前」という地名の由来が、「新編倉渕村誌第三巻民俗編」に書いてあります。
「行かず」→「行くまい」→「行前」になったんだって言うんですがねぇ・・・。
実は、「椿名神社」の由緒というのがもうひとつありまして、明治十二年(1879)に権田村戸長が県に提出したものです。
現在の「椿名神社」の向こう岸にあった塚上の石に、「椿名神社元湯彦尊」と刻まれていたのが元の元だというのです。
それが大水で流失しちゃったので、石宮を建立した場所が「行前」なんだという訳です。
因みに、「元湯彦命」(モトユヒコノミコト)というのは、椿名神社由緒によれば、綏靖(すいぜい)天皇の御宇、宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)の御子だそうです。
ところが、ややこしいことに、「榛名(はるな)神社」の由緒に「彦湯支尊」(ヒコユキノミコト)という人物が出てきて、これが「元湯彦命」と同一人物だということで、話しもよく似てるんです。
「倉渕村誌」は、こう結論付けています。
拝殿に、みごとな天井絵がありました。
田植えが済んだばかりの田んぼの中に、ポツンと「椿名神社」の森があります。
慶応四年(1868)三月四日、小栗上野介の軍用金目当てに暴徒たちが大挙集合したのが、ここ「椿名神社」だったことも記憶に留めておきましょう。
その向かい側が参道です。
70mほど進むと、趣きのある石橋が架かっていました。
橋の名前はないようですが、架橋の年月や架けた人の名前は刻まれています。
また少し行くと、片側にだけ御神燈が建っています。
明治三十六年(1903)のものですけど、この頃は75歳で御神燈を寄進したくなるほどの長生だったんですね。
突き当りが、「椿名神社」です。
入ったすぐ左の手水鉢の後ろに、高崎市指定天然記念物「椿名神社の大イチョウ・大ケヤキ」の看板があります。
「大イチョウ」は、社殿の左隣に聳えています。
400年の間に、イチョウと杉が一体化しちゃったようです。
すごいなぁ。
史跡看板は、境内へ入って右の「参道改修記念」碑の隣に建っているんですが・・・、
なぜか、「大ケヤキ」だけの看板になっています。
しかも「このケヤキ」って、まさかこの切株じゃないですよねぇ。
「大ケヤキ」は、社殿の後ろです。
看板は、「社殿裏のケヤキ」と書き直すか、「大ケヤキ」の根元に移すかした方がいいんじゃないでしょうか?
さて二つの看板に、「椿名神社」は「行前」という所から遷したと書かれています。
「行前」の元宮が火災で焼失したからと言うんですが、その火災の原因が二つの看板で微妙に異なっていて、片や「戦火」、片や「野火」となっています。
このことは、椿名神社社掌を兼ねていた八幡八幡宮社掌・竹林豊三が、昭和六年(1931)に作成した由緒書を見たら分かりました。
「 | 当所ハ後ニ牧場トナリ権田栗毛ト称スル名馬ノ産地ナリト云フ、御社モ宏大ニシテ社家等モ数多アリシガ、元亀天正ノ間、武田上杉等戦ノ衢(ク:道)トナリ、兵火ニ罹リテ社殿及家屋等皆消失ス、 |
(略) | |
依之旧記古文書宝物類等悉皆消失シ、一時廃絶ノ形勢ナリシヲ、文禄年中天台修験正福院ノ住職ト村民相議リ、往古大国主命ノ神社在リシ勝地ニ移転ス、此ノ処ニ神体ヲ奉ジ来テ満行大権現ト崇奉、故ニ旧社地ニハ小祀ヲ建立シテ祭祀セシモ、野火ノ為ニ数度焼失、」 |
その旧社地「行前」とはどこなんでしょう。
倉渕村の字図を見てみましょう。
「行前」という地名の由来が、「新編倉渕村誌第三巻民俗編」に書いてあります。
「 | 上ノ久保から行前川(上ノ久保沢川)に沿って入ると行前という地名がある。 そこは椿名神社がもとあった所で産土山(うぶすなやま)とよんでいる。 |
椿名神社の由緒によれば、元湯彦命(モトユヒコノミコト)が東国を平定したときに、この山の上に立って望見し、不令行(この先は行かず)を出したという。 | |
これがイクマイ→イクマエとなったという伝承がある。」 |
実は、「椿名神社」の由緒というのがもうひとつありまして、明治十二年(1879)に権田村戸長が県に提出したものです。
「 | サキニ別当正福院七世了瑱法印ヨリ聞伝フルニ、椿名神社元湯彦尊ハ大古権田村字広町、今ノ御社ノ裏ニテ当時烏川敷ノ向岸辺ニ、大ナル塚アリ。 |
頂上ノ丸キ野石ニ、車ノ郡権田村近田庄川並ノ里、椿名神社元湯彦尊ト幽(かすか)ニ切附アリ。(略) | |
享保ノ頃、烏川ニ(に)三回ノ満水ニテ、最初二回メノ頃、御塚七分通リモ崩破川欠トナリ、其際ヨリ丸キ石出タルコト大ナルハ五〆目位ヨリ百匁位マテ凡五十斗ナリ、追々空シク皆無地トナル。 | |
流失ヨリ直ニ字行前丸小山ノ頂上ニ石ノ宮ヲ建立シ、是ヲ鎮守ト崇メ祭ルコト四十年間ナリ。」 |
それが大水で流失しちゃったので、石宮を建立した場所が「行前」なんだという訳です。
因みに、「元湯彦命」(モトユヒコノミコト)というのは、椿名神社由緒によれば、綏靖(すいぜい)天皇の御宇、宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)の御子だそうです。
ところが、ややこしいことに、「榛名(はるな)神社」の由緒に「彦湯支尊」(ヒコユキノミコト)という人物が出てきて、これが「元湯彦命」と同一人物だということで、話しもよく似てるんです。
「 | 室田町大字榛名山巖山にあり、 |
創立は社傳に據(よ)れば神武・綏靖兩朝の御宇、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の御子・可美眞手命(ウマシマデノミコト)及び孫・彦湯支命父子、東國戡定(かんてい:平定)の任果てゝ榛名山中に薨(こう:死)ぜりと言ひ傳へ、山上に神籬(ひもろぎ:依り代)を立てゝ天神地祇(てんじんちぎ:全ての神々)を祭り、皇孫を壽き奉り、永く東國五穀の豊穣を祈り國家鎮護の靈場なりしといふ。」 |
(群馬縣群馬郡誌)
どうも、いろいろがこんがらがってるようですね。「倉渕村誌」は、こう結論付けています。
「 | 塚から出た丸石は氏族の長の墓が神社の起源ともみられる。 |
祭神を元湯彦命としたのは、神社を皇室中心の祭祀とした時代につくり出されたものであろう。 | |
つまり、はじめは氏の長をまつったものであったが、後に国の権力者の統制にしたがって祭神を皇室ゆかりのものに変えた。 | |
さらに下って江戸時代になり榛名神社の名声を慕って、従来の氏神の中に榛名神社の祭神をも分霊合祀したものと考えられる。」 |
拝殿に、みごとな天井絵がありました。
田植えが済んだばかりの田んぼの中に、ポツンと「椿名神社」の森があります。
慶応四年(1868)三月四日、小栗上野介の軍用金目当てに暴徒たちが大挙集合したのが、ここ「椿名神社」だったことも記憶に留めておきましょう。
【椿名神社】