
街なかに住んでいる人には、もうお馴染みのものであろう。
村上鬼城は、小林一茶と並び称されるほど有名な俳人で、今さら私が説明するのもおこがましい。
おこがましいが、ほんのちょこっと逸話だけ・・・。
鬼城は8歳の時、家族とともに江戸から高崎に移ってきたが、ここで波乱万丈とも言える人生を送ることとなる。
幼少からの耳の持病に悩まされ、人一倍努力したにも拘らず、軍人、政治家、弁護士の職を次々と諦めざるを得なくなる。
やっと高崎裁判所代書人の職に就いたが、ここでも耳が不自由なために依頼人が付かず、職を解かれてしまう。
この間、二男八女の子を持っていた鬼城は、困窮の極みであったようだ。
その状態を知った中央俳壇の名士達が、裁判所に掛け合った結果、鬼城は再び復職することができたという。
それまで高崎裁判所は、「そんな偉い人だとは知らなかった・・・」らしい。
しかし、昭和2年、またまた不幸が鬼城を襲い、鞘町の居宅は火災に遭って全焼してしまう。
途方にくれる鬼城に手を差し伸べたのは、またしても俳壇の仲間や、弟子たちであった。
その助力を得て、鬼城は並榎町の崖上に新しい居宅を構えることとなる。

道の反対側に、写真のような細ーい路地があって、そこが「崖の上の鬼城先生」の家への近道である。

この「鬼城草庵」こそ、村上鬼城が鞘町の旧宅から越してきて、晩年を過ごした居宅である。
鬼城はここを「並榎村舎」と命名し、自らの俳句活動や弟子たちの指導に努めた。

今は現代的な住宅に囲まれているが、鬼城がこの家に住み始めた頃は、周りは田畑で、日当たりも見晴らしも抜群であったという。
鬼城自身、「榛名山の裾はわが家の門前まで来ている。」と喜んだと伝わっている。
「鬼城草庵」の2階にある書斎も、当時のまま残されている。

そう、そう、昔はどの家もこんな部屋だったなぁと、懐かしさが込み上げてくる。
廊下からは、かろうじて当時の眺望を想像することができる。
ところで「鬼城」という雅号の由来であるが、これは故郷、鳥取県若桜町(わかさまち)にある「若桜城」の別称「鬼が城」からとったのだという。
鬼城の父は鳥取藩江戸屋敷住まいの武士であったが、廃藩置県を機に自ら町民となり、群馬県役人として赴任してきたのである。
さて、いつまでもこのまま残したい「鬼城草庵」であるが、現在は鬼城のご子孫が、すべて私財で守ってくださっている。
せめて、光熱費、資料のメンテンナンス費用だけでも、高崎市で補助できないものであろうか。
また高崎市民としても、折に触れ「鬼城草庵」を訪れて欲しいものである。
入館料500円が、貴重な「観光資源」存続のための糧となる。
◆「鬼城草庵」
高崎市並榎町288 Tel.027-326-9834
訪れる際は曜日を問わず、事前に電話予約を。