bgcolor="#ffff99">
「縁日の宵」 |
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月の八日は呑龍さま、二十三日は三夜さん、二十七日成田山の縁日である。 縁日商人が縁日の日取りを忘れないように、町の子供らも、縁日の日を忘れなかった。 |
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この三つの縁日は、いつも人出で賑わった。 狭い参道の両側に、ブッキリ飴屋、カルメ屋、しんこ屋、松皮煎餅屋、玩具屋、香具師(やし)の店の電灯、ランプ、アセチレン瓦斯、その色とりどりの光の渦、ふかし饅頭、煮込みおでんの匂いと人いきれの中を、人並みにもまれながら、店を一つ一つ見ていくのは楽しかった。 境内に入ると、見世物小屋が盛んに客を呼んでいる。(略) |
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呑龍さん(大信寺)は、家に一番近かったうえに、子供の神様(子育呑竜)というので、子供を背負ったり、子供の手を引いたお母さん達の参詣が多かったから、僕には最も親しみがあった。(略) |
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成田山も法輪寺も、また大信寺も、今は完全に町中になってしまったが、この物語の明治末期には、何れの寺も裏手に高崎田圃が迫っていた。 |
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大信寺の裏からは、黒い高崎駅や、赤い煉瓦の倉庫が見え、法輪寺はむえんど(無縁堂)の森が、成田山からは電車山が見渡された。」 |
田中氏は明治三十四年(1901)生まれなので、九歳頃の記憶なんでしょうか。
よく憶えているもんですね。
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◆高崎探訪
高崎唱歌
迷道院高崎
2023-07-29T06:00:00+09:00
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高崎唱歌散歩-36番 ♪其外劇場高盛座・・・
https://inkyo.gunmablog.net/e430605.html
其外劇場高盛座
裏手に出づれば砂賀町
てあい橋をばうち渡り
通り町には安国寺
八島町にあった「高盛座」(こうせいざ)は、高崎で最も早く創立された株式会社組織の劇場でした。
場所はここにありました。
現在の「イノウエビル」の所ですね。
「高盛座」の原点は、文久二年(1862)新(あら)町で起きた「御伝馬事件」にあります。
幕藩体制が終わらんとする明治二年(1869)新町念願の芝居小屋「坂東座」がオープンします。
場所は中山道沿いで「信濃屋旅館」の相向いあたりだったそうですが、明治五年(1872)火災で焼失してしまいます。
しかしすぐに再建され、それを機に「岩井座」と改称します。
時は過ぎて明治十七年(1884)「高崎停車場」ができ、そこから中山道に真っ直ぐつなげる道路を造るとなると、「岩井座」がもろに引っかかってしまいます。
そこで早くもその年、停車場道路北側に面して新しい「岩井座」の小屋を建てて移転します。
そして明治二十七年(1894)の改築を機に「高盛座」と改称、三十七年(1904)に株式会社となります。
ところが不運にも三十九年(1906)大火に遭って焼失してしまいます。
それにもめげず、翌年新築した「高盛座」が下の写真です。
長い歴史を持つ「高盛座」でしたが、昭和七年(1932)閉館となり建物も取り壊されました。
次の「砂賀町」(すながちょう)ですが、いつできた町なのか定かでありません。
「高崎志」(寛政元年/1789)にはこう書かれているだけです。
「
昔此所ニ砂賀道膳ト云者住シガ、其後人家モヤゝ多クナリケレバ、城主ヨリ砂賀町ト名ヅケラレシト也」
「更正高崎旧事記」(明治十五年/1882)は、こう書いています。
「
須永町ヲ砂賀町ト高崎志ニ云ルハ誤リ也。旧須永町ト初メハ書シ成ベシ。
其証ハ、光明寺銅仏ニ元文三戌年八月須永町ト見ユ。又須永氏ノ文字ハ然有ベシ。
後ニ砂賀ノ佳字ニ換タル也。」
「高崎志」への異論を唱えてますね。
「砂賀道膳」は「須永道善」で、だから初めは「須永町」と書いたんだと。
これを見ると、遅くとも元文三年(1738)以前にできた町のようです。
また、昭和二年(1927)の「高崎市史 上巻」では「醫師 砂賀道善(或ハ全)」とあって、「砂賀道全」説もあるようです。
そして「すなが・どうぜん」は「医師」だとも言ってますね。
町名由来だけでも複雑な「砂賀町」は、その町域も複雑な形をしています。
そこに架かっていたという「てあい橋」の「てあい」って何なんでしょう。
「出逢い」だったら艶っぽくていいですけどね。
「高崎の散歩道 第十二集下」の吉永哲郎氏によると、「ピカデリーの前のみちと昔の中山道とぶつかるT字路にかかっていた橋で、通町との境にあった。」そうです。
その「てあい橋」を渡ると通町の安国寺ですが、現在は「慈光通り」の南側に移動しています。
「安国寺」については、過去記事をご覧ください。
◇史跡看板散歩-146 箕輪の安国寺跡
はい、今回はこの辺で。
前の記事へ次の記事へ
其外劇場高盛座
裏手に出づれば砂賀町
てあい橋をばうち渡り
通り町には安国寺
八島町にあった「高盛座」(こうせいざ)は、高崎で最も早く創立された株式会社組織の劇場でした。
場所はここにありました。
現在の「イノウエビル」の所ですね。
「高盛座」の原点は、文久二年(1862)新(あら)町で起きた「御伝馬事件」にあります。
幕藩体制が終わらんとする明治二年(1869)新町念願の芝居小屋「坂東座」がオープンします。
場所は中山道沿いで「信濃屋旅館」の相向いあたりだったそうですが、明治五年(1872)火災で焼失してしまいます。
しかしすぐに再建され、それを機に「岩井座」と改称します。
時は過ぎて明治十七年(1884)「高崎停車場」ができ、そこから中山道に真っ直ぐつなげる道路を造るとなると、「岩井座」がもろに引っかかってしまいます。
そこで早くもその年、停車場道路北側に面して新しい「岩井座」の小屋を建てて移転します。
そして明治二十七年(1894)の改築を機に「高盛座」と改称、三十七年(1904)に株式会社となります。
ところが不運にも三十九年(1906)大火に遭って焼失してしまいます。
それにもめげず、翌年新築した「高盛座」が下の写真です。
長い歴史を持つ「高盛座」でしたが、昭和七年(1932)閉館となり建物も取り壊されました。
次の「砂賀町」(すながちょう)ですが、いつできた町なのか定かでありません。
「高崎志」(寛政元年/1789)にはこう書かれているだけです。
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「 |
昔此所ニ砂賀道膳ト云者住シガ、其後人家モヤゝ多クナリケレバ、城主ヨリ砂賀町ト名ヅケラレシト也」 |
「更正高崎旧事記」(明治十五年/1882)は、こう書いています。
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「 |
須永町ヲ砂賀町ト高崎志ニ云ルハ誤リ也。 旧須永町ト初メハ書シ成ベシ。 |
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其証ハ、光明寺銅仏ニ元文三戌年八月須永町ト見ユ。 又須永氏ノ文字ハ然有ベシ。 |
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後ニ砂賀ノ佳字ニ換タル也。」 |
「高崎志」への異論を唱えてますね。
「砂賀道膳」は「須永道善」で、だから初めは「須永町」と書いたんだと。
これを見ると、遅くとも元文三年(1738)以前にできた町のようです。
また、昭和二年(1927)の「高崎市史 上巻」では「醫師 砂賀道善(或ハ全)」とあって、「砂賀道全」説もあるようです。
そして「すなが・どうぜん」は「医師」だとも言ってますね。
町名由来だけでも複雑な「砂賀町」は、その町域も複雑な形をしています。
そこに架かっていたという「てあい橋」の「てあい」って何なんでしょう。
「出逢い」だったら艶っぽくていいですけどね。
「高崎の散歩道 第十二集下」の吉永哲郎氏によると、「ピカデリーの前のみちと昔の中山道とぶつかるT字路にかかっていた橋で、通町との境にあった。」そうです。
その「てあい橋」を渡ると通町の安国寺ですが、現在は「慈光通り」の南側に移動しています。
「安国寺」については、過去記事をご覧ください。
◇史跡看板散歩-146 箕輪の安国寺跡
はい、今回はこの辺で。
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◆高崎探訪
高崎唱歌
迷道院高崎
2023-07-22T06:00:00+09:00
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高崎唱歌散歩-35番 ♪八島町にはステーション・・・
https://inkyo.gunmablog.net/e430539.html
八島町にはステーション
倉庫会社に運送店
荷物の集散比(たぐ)ひなく
実(げ)に八達四通の地
「八島町」は前回記事の「鶴見町」の隣町で、どちらも同じ明治三十五年(1902)の成立です。
初代高崎市長・矢島八郎の「高崎停車場」誘致の功績を称えて、停車場前の地を「矢島町」と命名しようとしたが、矢島がこれを固辞したので、「矢」を末広がりの「八」に変えて「八島町」にしたという逸話は、高崎市民にはよく知られています。
明治三十四年(1901)の高崎市議会議案が残っています。
「
本按ノ区域ハ 日本鉄道停車場前ニ当リ
戸口日ヲ逐フテ増殖シ 優三ケ町タルノ体面ヲ備フルニ至レリ
而シテ往年ハ該停車場設置ニ際シ 矢島八郎氏ノ尽力少ナカラズ
依テ之レガ功績ヲ存スル為メ 仝氏ノ姓ヲ町名に冠シタキ旨 仝地方民ヨリ請願ノ次第モ之アリ
因て之レヲ矢島町ト称シ 尚地形ノ便ニ拠リテ十人町ノ一部ヲ編入ス」
ということですから、逸話は事実なんでしょう。
でも以前から何となくモヤモヤしてたんです。
「八島町」は「やしまちょう」と読むのが正式らしいのですが、何で「やじまちょう」じゃないのかなって。
ところがある時、そのモヤモヤが晴れた気がするものに出会いました。
「明治十四年 地理雑件」という各地の小字名を記した書物です。
そこにある「赤坂村」の小字名を見ると、「八島」という小字があるんです。
振り仮名は「ヤシマ」となっています。
その「八島」という小字がどこなのか、知人の中島正義氏がつくった「高崎の字図」で確認してみました。
まさに、いまの「八島町」じゃありませんか。
さあ、となると例の逸話は丸々鵜呑みにするのはどうかなと思います。
いつもの隠居の思いつきなんですが、町名を決めるについてこんなやりとりがあったんじゃないでしょうか。
停車場前も賑やかんなってきたから、そろそろ町にしなくっちゃだいなぁ。
そうだいなぁ、で町名は何にすべぇ。
小字が「八島」なんだから、「八島町」だんべぇ。
おい待てや、あそこは市長が停車場誘致に力尽くしたとこだんべや、「八島町」もじって「矢島町」っつうのはどうでゃ。
おー、そうだいなぁ、そうすりゃ市長も喜ぶだんべぇ、今度の議会で提案ぶつべぇ。
そうすべぇ、そうすべぇ。
・・・ところが、矢島八郎はそんなみっともないことは大っ嫌いという人物でしたから、頑として固辞されてしまいます。
んじゃしゃぁねぇや、「八島町」にすべぇ。
八郎の「八」の字も入ってるから、みんなの顔も立つしなぁ。市長には末広がりの「八」だって言っときゃいいだんべ。
せめて読みは「やじまちょう」にしてぇとこだけど、また市長におっつぁれるから、小字の読み通り「やしまちょう」っつうことにしとくんべぇ。
と、まぁ、こんなことだったんじゃないかと。
歌詞に戻りましょう。
「ステーション」は「高崎停車場」だということは、すぐおわかりでしょう。
「高崎停車場」開設の経緯については、過去記事をご覧ください。
◇駅から遠足 観音山(2)
「停車場」などと言わずに「駅」と言えば一文字で済むんですが、「高崎停車場」ができた明治十七年(1884)頃はややこしいことになるんですね。
それまで「高崎宿」と呼んでいた高崎は、明治十一年(1878)から明治二十二年(1889)まで「高崎駅」と呼ばれてたからです。
ステーション前は「旅館」はもちろん、歌詞にあるように「倉庫会社」と「運送店」がひしめいています。
汽車が着くたびに「おらおら!じゃまだ!どけどけ!」という荒々しい声と、「えー、お泊りは手前どもへ!」という客引きの声が聞こえてくるような気がしてきませんか?
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八島町にはステーション
倉庫会社に運送店
荷物の集散比(たぐ)ひなく
実(げ)に八達四通の地
「八島町」は前回記事の「鶴見町」の隣町で、どちらも同じ明治三十五年(1902)の成立です。
初代高崎市長・矢島八郎の「高崎停車場」誘致の功績を称えて、停車場前の地を「矢島町」と命名しようとしたが、矢島がこれを固辞したので、「矢」を末広がりの「八」に変えて「八島町」にしたという逸話は、高崎市民にはよく知られています。
明治三十四年(1901)の高崎市議会議案が残っています。
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本按ノ区域ハ 日本鉄道停車場前ニ当リ
戸口日ヲ逐フテ増殖シ 優三ケ町タルノ体面ヲ備フルニ至レリ
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而シテ往年ハ該停車場設置ニ際シ 矢島八郎氏ノ尽力少ナカラズ
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依テ之レガ功績ヲ存スル為メ 仝氏ノ姓ヲ町名に冠シタキ旨 仝地方民ヨリ請願ノ次第モ之アリ
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因て之レヲ矢島町ト称シ 尚地形ノ便ニ拠リテ十人町ノ一部ヲ編入ス」 |
ということですから、逸話は事実なんでしょう。
でも以前から何となくモヤモヤしてたんです。
「八島町」は「やしまちょう」と読むのが正式らしいのですが、何で「やじまちょう」じゃないのかなって。
ところがある時、そのモヤモヤが晴れた気がするものに出会いました。
「明治十四年 地理雑件」という各地の小字名を記した書物です。
そこにある「赤坂村」の小字名を見ると、「八島」という小字があるんです。
振り仮名は「ヤシマ」となっています。
その「八島」という小字がどこなのか、知人の中島正義氏がつくった「高崎の字図」で確認してみました。
まさに、いまの「八島町」じゃありませんか。
さあ、となると例の逸話は丸々鵜呑みにするのはどうかなと思います。
いつもの隠居の思いつきなんですが、町名を決めるについてこんなやりとりがあったんじゃないでしょうか。
停車場前も賑やかんなってきたから、そろそろ町にしなくっちゃだいなぁ。
そうだいなぁ、で町名は何にすべぇ。
小字が「八島」なんだから、「八島町」だんべぇ。
おい待てや、あそこは市長が停車場誘致に力尽くしたとこだんべや、「八島町」もじって「矢島町」っつうのはどうでゃ。
おー、そうだいなぁ、そうすりゃ市長も喜ぶだんべぇ、今度の議会で提案ぶつべぇ。
そうすべぇ、そうすべぇ。
・・・ところが、矢島八郎はそんなみっともないことは大っ嫌いという人物でしたから、頑として固辞されてしまいます。
んじゃしゃぁねぇや、「八島町」にすべぇ。
八郎の「八」の字も入ってるから、みんなの顔も立つしなぁ。市長には末広がりの「八」だって言っときゃいいだんべ。
せめて読みは「やじまちょう」にしてぇとこだけど、また市長におっつぁれるから、小字の読み通り「やしまちょう」っつうことにしとくんべぇ。
と、まぁ、こんなことだったんじゃないかと。
歌詞に戻りましょう。
「ステーション」は「高崎停車場」だということは、すぐおわかりでしょう。
「高崎停車場」開設の経緯については、過去記事をご覧ください。
◇駅から遠足 観音山(2)
「停車場」などと言わずに「駅」と言えば一文字で済むんですが、「高崎停車場」ができた明治十七年(1884)頃はややこしいことになるんですね。
それまで「高崎宿」と呼んでいた高崎は、明治十一年(1878)から明治二十二年(1889)まで「高崎駅」と呼ばれてたからです。
ステーション前は「旅館」はもちろん、歌詞にあるように「倉庫会社」と「運送店」がひしめいています。
汽車が着くたびに「おらおら!じゃまだ!どけどけ!」という荒々しい声と、「えー、お泊りは手前どもへ!」という客引きの声が聞こえてくるような気がしてきませんか?
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◆高崎探訪
高崎唱歌
迷道院高崎
2023-07-14T06:00:00+09:00