拙ブログの「高崎市立中央小学校」の記事で、「今の校歌の前に校歌らしきものがあった」と、覚えていた歌詞を紹介したところ、異なる歌詞で覚えているというコメントをいただいた。
そう言われてみると、その校歌らしきものの楽譜や歌詞をもらった記憶がない。
5年生の時だったと思うが、運動会の「棒倒し」の時、入場行進の歌として覚えた気がする。
だから、口伝で受け継がれた歌だったのかも知れない。
コメントをいただいてから、この歌が気になって仕方がなかった。
中央小へ行けば、あるのかも知れないと思ったが、生来の人見知り癖がなかなか足を向かわせない。
そんな折、偶然、市立図書館で「校歌アルバム 西毛編」という本を見つけた。
あった、あった!ありました!
まぎれもない、あの時歌っていた中央小の旧校歌だ。
出版は昭和57年、「あさを社」(高崎市乗附町)、編者は「ふるさとのうた保存会」主宰の横田金治氏とある。
早速、「あさを社」さんに電話をし、複写とブログ掲載の許可をお願いしたところ、快諾をしていただいた。
ご厚意に感謝して複写させて頂いたのが、左の楽譜だ。(楽譜クリックで拡大)
やはり、私の記憶していた歌詞とチョコっと違う。
しかも、歌詞は5番まであった。
だがその歌詞を見て、
「こりゃ、校歌としてずっと歌う訳にはいかないや。」と納得した。
この校歌、昭和17年頃のものとある。
昭和17年と言えば、太平洋戦争の真っただ中。ミッドウェー海戦で日本海軍が手痛い打撃を受けて、以降じわじわと米国に押されていくことになるが、まだ日本国民は勝利を信じていたころである。
校歌の3番、4番など、まさに当時の教育姿勢を物語っている。
3番の「御使御差遣・・・」など、どう読むのかも分からない。
たぶん、「おんし、ごさけん・・・」と読むのだろう。「天皇陛下がお遣わしになった使者」が学校に来たことを、誉れとして忘れるな、という訳だ。
中央小の新しい校歌が制定されたのは、昭和35年とある。
終戦になってからその間、旧校歌の1番だけが口伝されていた理由が、やっと分かった。
そう言われてみると、その校歌らしきものの楽譜や歌詞をもらった記憶がない。
5年生の時だったと思うが、運動会の「棒倒し」の時、入場行進の歌として覚えた気がする。
だから、口伝で受け継がれた歌だったのかも知れない。
コメントをいただいてから、この歌が気になって仕方がなかった。
中央小へ行けば、あるのかも知れないと思ったが、生来の人見知り癖がなかなか足を向かわせない。
そんな折、偶然、市立図書館で「校歌アルバム 西毛編」という本を見つけた。
あった、あった!ありました!
まぎれもない、あの時歌っていた中央小の旧校歌だ。
出版は昭和57年、「あさを社」(高崎市乗附町)、編者は「ふるさとのうた保存会」主宰の横田金治氏とある。
早速、「あさを社」さんに電話をし、複写とブログ掲載の許可をお願いしたところ、快諾をしていただいた。
ご厚意に感謝して複写させて頂いたのが、左の楽譜だ。(楽譜クリックで拡大)
やはり、私の記憶していた歌詞とチョコっと違う。
しかも、歌詞は5番まであった。
だがその歌詞を見て、
「こりゃ、校歌としてずっと歌う訳にはいかないや。」と納得した。
この校歌、昭和17年頃のものとある。
昭和17年と言えば、太平洋戦争の真っただ中。ミッドウェー海戦で日本海軍が手痛い打撃を受けて、以降じわじわと米国に押されていくことになるが、まだ日本国民は勝利を信じていたころである。
校歌の3番、4番など、まさに当時の教育姿勢を物語っている。
3番の「御使御差遣・・・」など、どう読むのかも分からない。
たぶん、「おんし、ごさけん・・・」と読むのだろう。「天皇陛下がお遣わしになった使者」が学校に来たことを、誉れとして忘れるな、という訳だ。
中央小の新しい校歌が制定されたのは、昭和35年とある。
終戦になってからその間、旧校歌の1番だけが口伝されていた理由が、やっと分かった。