2010年07月14日

北の国から紫文さん

「紫文です~。」
電話の向こうから、我らが柳家紫文師匠の聞きなれた声です。

「あー、こんにちはー!どうしました?」
「今ねー、北海道の伊達に居るんですけど、
 すごいもの見つけちゃいましたよー!」

「えー?何ですかー?」
「あのねー、町並みがねー・・・」

北海道伊達市の新しく整備された町並みが、ちょっとした工夫で昔風の装いに統一されていて、すごい!
というので、わざわざ電話してきてくれたんです。
嬉しいですよね。
その街並みを見て、普段このブログでグジャグジャ言ってる私を、思い出して頂いたんですから。

そして、沢山の写真をメールで送って頂きました。
では早速、その写真をご覧いただきましょう。

素敵な街並みです
建物、街灯、歩道上の配電盤(?)も
デザインが統一されてます
電線は地中化されてます

市役所のゲートからして、これですから!
市役所前の
「北洋銀行」
その隣が
「北海道銀行」
「伊達農協」
見事なまでの統一感です

「だて歴史の杜」
「道の駅」だそうです
「びっくりドンキー」にびっくりです!
昔の建物を利用して使ってるんだそうです

心も通う和み小路「十勝乃長屋」
紫文師匠曰く、「屋台をつなげて長屋にしたもの。すごく良いです。」

「十勝乃長屋」の道を挟んだ向かいには、屋台村もあるそうです
写真は帯広屋台村だそうです
師匠が、屋台の主催者から頂いたという写真です


有珠山の麓にある人口3万7千人ほどの伊達市は、噴火や過疎化で、一時期は財政破綻の危機にありました。
危機を救ったのは、官民一体となって取り組んだ「町づくりプロジェクト」でした。
それが実を結び、今や定年後に移住したい街の上位にランキングされるようにまでなりました。

「北海道伊達市モデル この街は、なぜ元気なのか?」の著者・桐山秀樹氏によると、伊達市をこれほどまでに活気ある街にしたポイントは次の5つだそうです。

1.トップリーダー(市長)が覚悟を持って方向性をはっきりと示した。
「国の補助金にはもう頼れない」ということで、自立自助の覚悟を持った。移住者を増やす政策を優先課題とし、民間企業を巻き込んで挑戦している。
2.大義名分となる理論武装をした。
学者らを交えて「小都市とは生活サービス業」だと位置付け、顧客(市民)が満足すれば、新顧客(移住者)も増えると考えた。
3.使命感を持った旗振り役・応援団がいた。
地元の金融機関や商工会議所のリーダー達が、次世代のリーダーを育てようとしている。
4.業務の仕上げをする実務家(市役所の職員)がそろっていた。
プロジェクトを完遂させるためには、部門(業者)間の調整や、こまごまとした業務を仕上げられる実務家が欠かせない。伊達にはその人材がいた。
5.目的達成意欲が強く、チームワークがいい。
多くの都市で改革をしようとすると、最後は仲違いが起きて失敗するケースがほとんどである。この街の人達は、官も民も目的達成意欲が強く、一体となる風土がある。

伊達市のこの改革は、地域活性化の数少ない成功例として、「伊達市モデル」と呼ばれています。

桐山氏は、こうも言います。
「街の活性化」とは、新たな地場産業や名物を売り出すことではない。
その街に暮らす人々が本当の「生きがい」を持って、街づくりに協力し、住民全体で協力し合う。
それこそが真の活性化である。


手本は、あるんですね。
ただ、手本とするかどうか、行動するかどうか、そこが分かれ道のようです。

  ◇「伊達市のまちづくり」(北海道伊達市のHPより)

(参考図書:「北海道伊達市モデル この街は、なぜ元気なのか?」)


  


Posted by 迷道院高崎at 06:49
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2010年10月08日

小布施にまねぶ

まだ紅葉には早い平日の長野県小布施町ですが、大勢の観光客を集めていました。

小布施というと昔の町並みを修復した町づくりとして有名ですが、私は、町の一角にあるこの石に小布施の町づくりの精神の全てを感じました。

この石は「市神」(いちがみ)といい、この地で行われていた「六斉市」の守護神で、取引の平穏無事を願うものだったんだそうです。
長らく町外れの皇大神社境内に移されていましたが、町並み修復の一環として、元あった場所近くに戻したといいます。(「市神」説明看板)

ここに一冊の本があります。

著者は、東京理科大学理工学部建築学科教授であり、小布施町まちづくり研究所の所長でもある川向正人(かわむかい・まさと)氏です。

小布施「町並み修景事業」は昭和五十七年(1982)からスタートしていますが、当初からその事業の研究に関わってきた東京理科大学と共同出資をして、平成十七年(2005)、役場の中につくったのが「小布施町まちづくり研究所」です。

小布施では「町並み保存」という言葉を使わず、「町並み修景」と呼んでいます。

川向氏によれば、
町並み保存とは、歴史的な様式形態の保存・継承が重視される。
それに対して町並み修景は、その土地の持つ雰囲気や全体の景観を重視する。」
のだそうです。

さらに、
保存事業では、歴史的建造物の様式特徴を正確に復元・修理しようとするため、個々の家屋が孤立した単なる展示品になる。
一方、修景事業は全体の景観を修復するために、ときには曳き家で位置を変え、解体して移築し、あるいは新築する場合もある。」
と言います。

町なかでは、事業がスタートしてから30年近くたった今でも、修景のための曳き家が行われていました。




公共事業のように見えますが、施主は民間の伊那食品工業(株)です。
しかも、商工会青年部とも、ちゃんと連携が取れています。


時の経過の中で到達した古建築の自然な状態を、可能な限り残すというのも修景の考え方です。

いま修復中の建物の土壁も、全面塗替えせずに、使える部分はそのまま残すことで、時間の重なりとして自然な風合いを醸し出すようにしているのだそうです。

一瞬、日帰り温泉かと間違えそうなここは、長野信用金庫小布施支店です。

この奥には、小布施の修景事業の端緒とも言える、高井鴻山の書斎「翛然楼」(ゆうぜんろう:現高井鴻山記念館)があって、町がこれを買い取って一般公開する構想になっていました。

しかし、この信金の建物があるために入口は狭く、駐車スペースも足らないという問題が起こりました。
地権者の市村次夫氏は、このまま行政主導の事業を容認すると、駐車場確保のために街並みを破壊するかもしれないと懸念したそうです。
そこで市村氏は行政、信金、そして地域住民に集まってもらい、町並みを維持しながらこの一角を歴史文化ゾーンとして整備する方法を検討したのだといいます。

この動きが、後に、町内に住む30代から50代までの世代に声をかけて結成される、住民中心の「まちづくり研究会」に繋がっていったのではないかと思います。
研究会メンバーは異口同音に、こう言うそうです。
「助成金などが一切受けられなくても、自分たちの手で、歴史文化を実感できる住環境の整備を進めたい。」

そんな小布施の町で目に留まった、ちょっといい風景です。

普通は金属の側溝の蓋も、小布施では栗の木で出来ています。小布施には木陰やベンチが沢山あって、涼しく街歩きが出来ます。町角には、小布施に伝わる民話の紙芝居が立っています。
栗庵風味堂のCONVOY88です。
北斎の「女浪」と「龍」が描かれています。

小布施修景事業は、官・学・民の良きリーダーに恵まれたことが成功のカギだったように思います。
しかし最初の一歩は、昭和四十四年(1969)に就任した市村邦夫町長の、「歴史を大切にし、人々の記憶や絆を大切にして欲しい。」という思いでした。

わが高崎も、まずは行政のリーダーが呼び掛けて、官・学・民で「小布施流町づくり」真似ぶところから始めてはどうでしょうか。
川向正人氏著「小布施まちづくりの奇跡」は、そのための良い教科書になるはずです。




  


Posted by 迷道院高崎at 23:06
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2010年10月27日

秋田にいます

秋田小町を探しに、角館まで来てしまいました。

ここには、普通に秋田小町がいます。

でも、寒いです。

乳頭温泉で、雪見温泉と洒落てみました。

混浴だったけど、電池切れで、写真はありません。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:17
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2010年10月28日

遠野は今日も雨だった

今年の5月に来たときも雨だったずもな。

遠野は雨が似合う、などと負け惜しみを言ってはみますが・・・。

雨のせいか、寒さのせいか、通りを歩いている人はほとんどいません。

「どんとはれ」


  
タグ :岩手県遠野


Posted by 迷道院高崎at 22:16
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2010年10月29日

釜石大観音

高崎白衣大観音を凌ぐ、高さ48.5m。

建てられたのは高崎より遅れること34年。

胎内に安置された鉈彫りの三十三観音や七福神、展望台からの釜石港の眺めは絶品です。

それでも、参道に10数件あった土産店は全てシャッターが降り、全滅でした。

人ごとじゃありません・・・。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:16
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2010年11月02日

角館駅前にて

あるお方に、角館へ行ってきますと言ったら、「かきのたね?」と聞かれました。
似てますかね?

角館駅
新幹線も停まる駅
ええだなーや

(いいなー)
「角館」の由来
へー
そーなんだがー

(そうなんだー)
もうひとつの駅
内陸線角館駅
乗ってけれって

(乗って下さいって)

内陸線角館駅の待合室です。

高倉健が座っていても不思議でない雰囲気でしょう?

内陸線(秋田内陸縦貫鉄道)は、経営不振で存続が危ぶまれているそうです。

でも、とても味のある駅名が多いんです。
羽後長戸呂松葉左通阿仁マタギ笑内
うごながとろまつばさどおりあにまたぎおかしない

角館の焼き饅頭
上州のとは別物
どでんしたー!

(びっくりしたー!)
蔵造りの観光案内所
休憩所にもなってます
いがべー?

(いいでしょー?)
駅前交番の
赤いぼんぼり
おもへなー!

(面白いなー!)


  
タグ :秋田県角館


Posted by 迷道院高崎at 09:19
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2010年11月03日

角館武家屋敷にて


角館では、無料で見学できる歴史的建造物がいくつもあります。

明治後期から大正時代にかけて地主として繁栄し、5棟の蔵と母屋を持つ西宮家もその一つです。



蔵の中に、こんなのがありました。→

私は、好きです。



←町なかの素敵な建物。






「まちの駅」という、無料休憩所でした。


いやー、方言ってのはいいもんですねー。
それだけで、観光に来た気分になります。
上州弁だと、ぶっきらぼうになりそうですが。
「おらほーに、よってきない。」・・・かなー?

こんなのも売ってましたが、標準語なのが残念!ですよね。

せめて、「秋田美人が、乗ってるす」くらいにして欲しかったす。



大観光地ともなると、

「禁煙」も4ヶ国語表記なんですね。


武家屋敷地区の案内図ですが、町名が面白いなと思いました。

「表町」に対して「裏町」があります。

「歩行町」は一年中歩行者天国かと思ったら、「おかち町」と読むんだそうです。
東京「御徒町」と同じで、徒士(かち)という下級武士が住んでいたようです。

分からなかったのは、「小人町」です。
まさか、子どもばかり住んでた訳でも、七人の小人が住んでた訳でもないでしょうし。

「小人町」で、昔から営んでいるお蕎麦屋さんに聞いてみましたが、ご存知ありませんでした。

観光案内所でも聞いてみましたが、ご存知の方はいませんでした。
ただ、一人の方が「昔は、『おなかま町』といっていたと書いてあります。」と言って、その本を見せてくれました。
見ると、「東西の両はじ(御徒町・御仲間町と御厩町)には徒土や足軽・小者などを居住させた。」とあります。

「なかま」ではなく「ちゅうげん(仲間)」でした。
「仲間(ちゅうげん)」は、武家奉公人と呼ばれる人達で「小者(こもの)」とも言われます。
ということで、「小人町」「小者」が住んでいた所だと分かって、やっと胸のつかえが取れました。

いい町です、角館

「着物の似合う町」を目指しているそうです。

この日も、着物を着たご婦人方が沢山歩いていました。

さて、わが高崎の町には、何が似合うのでしょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:27
Comments(6)◆出・たかさき

2010年11月05日

遠野市立博物館にて


入口を入った途端、幻想的なディスプレイに驚かされる「遠野市立博物館」です。






昔の遠野の祭りの様子が、大きなパネルになっていました。

←こんなのも、ありました。

目線は、どうしても下の方にいってしまいます。

「雨風祭り」という、二百十日の被害を少なくするためのお祭りに使う藁人形だそうです。

それにしても・・・デカイ。

河童情報の大募集をしていました。→
本気らしいです。

現に、情報が寄せられています。↓

こんな努力が実ってか、遠野市世界妖怪協会から「怪遺産」に認定されています。


沢山ある展示物の中で一番気に入ったのが、昔の様子を再現したビデオパネルです。
ジオラマと人間の実写を組み合わせた、臨場感あるものになっています。
また、画面内の職業名をタッチすると、登場人物が説明をするような仕組みになっていて、とても面白かったです。



2010年4月にリニューアルされた遠野市立博物館は、町の外れではありますが、遠野駅から600mしか離れていません。
市立図書館と同じ建物になっていて、すぐ隣には宿泊施設の「あえりあ遠野」もあり、町なかの観光エリアだって500mという近さです。

翻って我が高崎歴史民俗資料館は、駅から6kmも離れています。
高崎市歴史民俗資料館には、貴重な資料が保管・展示され、職員の方々は実に献身的に高崎の歴史を紹介しておられます。
しかし、観光旅行者にここまで来て頂くことは、ほとんど期待できないでしょう。

考えてみれば、高崎の町なかには非公開になっている蔵造りの建物が、まだまだ沢山残っています。
それらを、高崎の歴史を紹介する場として活用できないものでしょうか。
町なかに蔵造りの高崎歴史民俗資料館
想像しただけでも素敵ではありませんか。

蔵の所有者の方々に、ぜひお願いしたいのです。
歴史民俗資料館として、蔵を使わせていただけませんか。
行政の方々に、ぜひお願いしたいのです。
一歩を踏み出していただけませんか。


  


Posted by 迷道院高崎at 19:34
Comments(6)◆出・たかさき

2011年07月10日

信州へ行ってました


決してミーハーではないと思っていたのですが、NHKの朝ドラ「おひさま」のロケ地を訪ねてみたくなって、信州へ行ってしまいました。

まずは定番の、陽子が色を塗っていた道祖神水車小屋がある、安曇野堀金地区へ。

駐車場となっている「国営アルプスあづみの公園」には、「おひさま口」という臨時の通用門が設けられていました。




平日でしたが、「おひさま」効果はすごいもので、多くの方が見学に来ていました。
路駐をする人もいて、土日ともなると地元の方にはご迷惑なことでしょう。

一面に広がるソバ畑は地元農家のものだと思ったら、公園の事業用地にディスプレイとして蒔いたもので、花が終わったら収穫することなく土に戻しちゃうんだそうです。

ソバ畑も、セットだったんですね。
(次に蒔くソバは、ちゃんとそば打ちイベントで使うとのことです。)

ここを訪れた誰もが、必ずと言ってよいほど記念撮影をしていくスポットも、みんなセットだそうです。



でも、訪れる人はみんなそれを承知しているようで、これはこれで観光地が備えるべき要素のヒントを示しているような気がします。

ただ地元の人たちは、一過性のブームにはあまり関心を示していないように思えます。
ここへ来るまでは、「おひさま」の幟旗があちこちにはためき、売店のテントが立ち並び、田畑をつぶした有料駐車場に呼び込んでいる、という光景をイメージしていました。

しかし、そんなことは全くなく、美しい風景の中、地元の方々はいつも通りの生活をしているように見えます。
その落ち着いた態度に敬意を感じるとともに、私たちも静かな生活の場を騒がすことのないよう気を付けなくては、とも感じました。

甲斐武田氏に属する堀金氏一族が居を構えていたという旧堀金村、この辺りにあった安楽寺の、大きな宝篋印塔が残っています。

明和五年(1768)に、近郷の女性二十名の浄財によって建てられたものだそうです。

宝篋印塔も立派なのですが、私の目は近くにある松の木に生えている、立派なキノコに釘付けでした。




マツタケ
まさかねぇ・・・。

このお屋敷の大きさもまた一段と目を引きます。

三百数十年の歴史を持つという、山口家のお屋敷です。



近郷の大庄屋であった山口家には、わざわざ京都から庭師を招いて築造したという回遊式庭園があり、松本藩主が鷹狩をする際には必ず立ち寄って、疲れを癒したのだそうです。

安曇野の大きな自然が広がり、清冽な水が豊富に流れている、静かで素敵な里でした。

大切な水源を守るように、森の中にひっそりと祀られている若宮大明神にお礼を言って、堀金の里を後にしました。



  


Posted by 迷道院高崎at 18:16
Comments(4)◆出・たかさき

2011年07月14日

あがたの森へ行ってました

「何の写真だ!」と突っ込まれそうですが、松本市役所です。

「それがどうした!」・・・まぁまぁ^^;

大きな柳に隠れてしまっていますが、「おひさまの舞台へようこそ」という大きな垂れ幕が下がり、玄関には幟旗も立っています。

市を挙げて、観光客の誘致に取り組んでいる姿に感銘を受けたのです。

行ってみたかったのは、ここ →
あがたの森公園にある、旧・松本高等学校です。

「おひさま」では、陽子の初恋の人・川原功一春樹兄ちゃんが通っていた学校ですね。

大正九年(1920)の建物だそうです。

昭和二十五年(1950)松本高等学校閉校後は、信州大学人文学部の校舎となりましたが、昭和四十八年(1973)に人文学部が移設となり、閉鎖されます。

この時から建物の保存運動が始まり、昭和五十二年(1977)松本市は建物および敷地の一部を約7億円で国から買い取って、文化財として保存・活用することを決めました。

そしてその2年後、「あがたの森文化会館」として開館、同時に図書館公民館も併設して、現在も市民の各種文化活動に利用されています。

建物には誰でも自由に入ることができ、復元された校長室教室も見学できます。

昭和五十六年(1981)には「長野県宝」に、平成十九年(2007)には「重要文化財」に指定されました。

隣には、これまたお洒落な講堂の建物も残されています。

訪れた陽子・真知子・育子を、川原春樹が二階の窓から見ているシーンに使われました。

戦争中に供出で失ったシャンデリアも復元され、コンサートや展示会に利用されています。



ふたつの素敵な建物を見上げながら、松本市の文化度の高さに感服するとともに、わが高崎「春靄館」のことに思いを馳せていました。


  


Posted by 迷道院高崎at 21:30
Comments(6)◆出・たかさき

2011年07月17日

縄手へ行ってました

そろそろお腹が空いてきたので、お蕎麦でも食べようとやって来たのがここ。
松本「縄手(なわて)通り」にある、明治十年(1877)創業の老舗「弁天」本店です。

「おひさま」陽子が嫁いだ「丸庵」のモデルだと言われています。

ただちょっと不思議なことが・・・。
先日放送された「鶴瓶の家族に乾杯」で、「おひさま」春樹役をした田中圭さんと鶴瓶さんが、この「弁天」に寄り込んでましたが、「丸庵」のモデルだという話は一切出ませんでした。

「弁天」自身そのことを知らないのか、はたまた単なる噂なのか・・・。
お蕎麦を食べながら聞いてみようと思っていたのですが、入り口には、
「本日休業」の看板が!!

「弁天」のある「縄手通り」のシンボルは、「カエル」だそうです。




拠りどころとなったのは、やはり昔の町の思い出だったんですね。


カジカ蛙が沢山いたという「女鳥羽(めとば)川」には、名前の由来がちゃんと紹介されています。

このような由来を書いた看板は、薀蓄好きの旅人にとっては嬉しいですし、市民にとっても郷土愛を育む効果があるのではないでしょうか。

近くには、「花いっぱい運動発祥の地」碑と、とてもお洒落な広告塔が建っています。

時計の下には松本城のシルエットが、その下にはこんな言葉が刻まれています。
「市民の英知と勇気をもって
 ここに理想の都市を建設しよう」


女鳥羽川沿いに250mほど続く「なわて商店街」には長い歴史があり、明治九年(1876)に松本城の南惣堀(そうぼり)を埋めて露店を並べたのが始まりだそうです。

平成十三年(2001)に全面改修されていますが、昔懐かしい風情の、統一感ある、しかし個性的な、様々な分野の小さなお店が立ち並んでいます。
シャッターの下りている店は一軒も見当たりません。

お腹が空いていなければ、もっとゆっくり歩いてみたい商店街でした。
いま活性化に頭を痛めている商店街の、お手本となる街だと思いました。
ただし、お手本にするのは目に見える形に止まることなく、その心意気をも学ぶことが大切なのでしょう。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:50
Comments(2)◆出・たかさき

2011年07月20日

城下町へ行ってました

「おひさま」陽子が、初恋相手の川原功一に手を引かれて階段を上った松本城です。

こんな立派なお城が残ってるなんて、羨ましいことです。

改めて、「高崎に、もしもお城があったなら」と嘆息するばかりです。

でも、実は松本城も危なかったのです。

明治四年(1871)の廃藩置県で、二の丸御殿筑摩県庁がおかれると、城内の門や塀の取り壊しが始まりました。
翌年、競売にかけられた松本城は235両で落札され、落札者は天守閣を取り壊すつもりでした。
そこへ、「城がなくなれば松本は骨抜きになる。」と待ったをかけたのが、元信飛新聞社社長・市川 量造氏だそうです。
市川氏は城の買い戻し運動を起こし、城内で開催した博覧会の入場料などを資金に充てて無事買い戻しに成功し、天守閣は残ったのです。

二度目の危機は、明治三十二年(1899)に訪れます。
県は、本丸を松本尋常中学校の運動場にすることを決定します。
町民たちは、「運動場になれば城跡は荒廃する。本丸は公園にして欲しい。」と要望します。
当時、校長であった小林有也(こばやし・うなり)氏は、町民の思いに深く心を動かされ、本丸を運動場にすることは止むなしとしたが、併せて、荒廃して傾いた状態の天守閣を修理・保存するための運動を起こします。
小林校長の行政への働きかけや募金運動により、11年の歳月をかけた大修理工事が竣工しました。

松本城は、昭和二十五年(1950)にも大修理を行っていますが、いずれの場合も、よきリーダーと市民の物心両面にわたる力の結集が、今日の松本市に大きな財産を残しました。

明治九年(1876)には、二の丸御殿に置かれていた筑摩県庁が焼失するという災厄もありました。

素晴らしいと思ったのは、その跡地の残し方です。

「二の丸御殿絵図」をもとに、更地になった跡地にその区割りを再現しています。

もはや、わが高崎城を復元することは困難になった感がありますが、この手法で再現する手は残っているな、と思いました。

二の丸近くに、松本城ボランティアガイドのテントがあり、三人の方が待機していました。

毎日、みなさん手弁当で、9:00~17:00までここに詰めているのだそうです。
これも、松本市民力ですね。

松本の町なかには、あちこちに水が湧き出ています。

そこには夫々、城下町に由来する事柄が表現されていますが、ここには、江戸時代の旧町名・大名町の由来を書いた石柱が建てられていました。

←このベンチには、歴代の松本藩主一覧が書かれています。






「信濃」の名の由来になったという説もある「シナノキ」の並木道にも、歴代藩主の家紋が描かれた、行燈(あんどん)風の街灯が並んでいます。

行政にここまでやられたら、民間だってその気になります。


← ファミマだって、この通り。






古書店は、お城そのもの。→

和楽器の製造販売店もあれば、三味線の生演奏が
いつでも聞ける処もあります。

← ここは、古さと新しさが見事に調和した、中町通り






元・造り酒屋の蔵を利用した多目的会館、その名も「蔵シック館」

いやー、参りましたなー。
魂の入ってる町でした。
活きている町でした。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:50
Comments(5)◆出・たかさき

2011年07月23日

湯之町へ行ってました

たぶん、「おひさま」のロケ地にはなっていないと思うのですが、どうしても来たかったのが「下諏訪宿」です。

「下諏訪宿」というのは宿としての呼び方で、郷村名としては「湯之町」というんだそうです。

「湯之町」の名の通り、雰囲気のある旧中山道を歩くと、あちこちに湯が湧き出ています。

「御作田(みさくた)神社」の石垣には、温泉と清水の両方が湧き出ています。



「御作田神社」諏訪大社下社の摂社で、境内には神米を採るための「神田」があります。

6月30日に田植えをし、一ヶ月後の8月1日には収穫できるというので、下社七不思議の一つになっているそうです。

そういえば、「八月一日」と書いて「ほづみ」と読む姓があることを思い出しました。

「鐡(てつ)鉱泉旅館」の足湯は、誰でも無料で利用できます。

こちらは温泉銭湯「旦過(たんが)の湯」




朝5時半から夜10時までやってて、入浴料金はなんと!220円という安さ。

←こちらは、同じく温泉銭湯「児湯(こゆ)」の入口に祀られている、「児宝地蔵」です。

普段見慣れている突っ立ったお地蔵様と違い、跪いて湯に手を入れているお姿はとても新鮮で、慈悲に満ちている感じがしました。

「銕焼( かなやき)地蔵尊」のご利益で湧き出したのが「児湯」だそうですから、「児宝地蔵」「銕焼地蔵尊」なんでしょうね。

「銕焼地蔵尊」を寺宝とする「来迎寺(らいこうじ)」を通る道は鎌倉街道だそうです。





「来迎寺」手前の素敵な民家、玄関に貼られている紙が目に留まりました。

「花屋茂七館」と書いてあります。
普通なら、「ご用の方はチャイムを押してください。」程度のそっけない文言ですが、この貼紙の言葉には実に感銘を受けました。

花屋茂七という人は、江戸末期から明治中期にかけて下諏訪宿の旅籠「花屋」を営んでいた主だそうです。

その四代目にあたる小松秀夫さんが自宅を増改築して、街かど博物館「花屋茂七館」を開館したのです。

ご先祖から受け継いだ町指定文化財「木造虚空蔵(こくぞう)菩薩座像」をはじめ、家に伝わる日本画、書、資料、生活用品など約60点を展示しているそうです。
入館無料、開館日は金、土、日曜日の午前9時~午後4時、開館日時以外でも予約すれば対応して頂けるとのことですが、この日は早朝だったので見学は遠慮させて頂きました。

鎌倉街道が通り、中山道甲州街道の交点でもある下諏訪宿は、諏訪大社のお膝元でもあり、中山道唯一の温泉のある宿場であったことから、大層賑わったようです。



その賑わいぶりが、問屋場跡に掲示されている「木曽路名所図会」に描かれています。

明治になってからはシルク産業で発展し、戦後は精密機械工業が盛んになるなどして栄えた下諏訪ですが、グローバル化の波はここ下諏訪にも押し寄せ、産業も町も空洞化させていきます。

残ったのは、歴史が育んだ街道宿場町の風情でした。

下諏訪の町はその財産をフルに活かして、観光の町として新たな発展を目指しているように見えました。

しかし、この町の本当にすごいと思うところは、諏訪大社をはじめ多くの歴史遺産を大切にしながらも、それにもたれ掛かることなく、新しい町の姿を創り出そうとしているところです。

それが、「匠の町しもすわ あきないプロジェクト」です。
私が感服したのは、「よそものの力で商店街を再生する」という柔らかい発想と、「ものづくりと商いのマッチング」というビジネスモデルです。

わが高崎にも、大いに参考になるプロジェクトではないかと思いました。

百聞の価値、一見の価値がある湯之町でした。


  


Posted by 迷道院高崎at 22:04
Comments(2)◆出・たかさき

2011年07月30日

木落とし坂へ行ってました

信州ネタに戻ります。下諏訪宿の続きです。

諏訪へ来て諏訪大社を見なくちゃ、というので下社秋宮へ。

凛とした空気の中、朝のお勤めの太鼓の音が響いていました。



諏訪の精密機械工業を代表する企業、三協精機(私の年代ではこの社名の方が馴染みがあります)製の、木落しのからくり「オルゴール塔」がありました。

動くのを待ちきれずにその場を離れてしまいましたが、ユーチューブに動画をUPしている方がいらっしゃいました。
ほ~、こんな風に動くのですね。


境内に入って正面の神楽殿を見た時、一瞬、どうなっているのか理解するのに少し時間がかかりました。

「あーっ、工事足場のシートに実物大(たぶん)の写真がプリントしてあるんだ!」ってわかった時は、本当に感激しました!

この神楽殿は天保六年(1835)に造られたもので、平成二十一年(2009)から2年がかりの大修理中なんだそうです。

すごいなぁと思ったのは、修理前の調査で銅板葺の屋根裏を調査したところ古い板が残っており、建設当初は椹(さわら)材を使った杮(こけら)葺きだったことが分かったので、杮葺きに戻すことにしたというのです。
この、こだわりがすごいじゃないですか。

工事用シートの巨大プリントも、修理中に訪れた人ががっかりしないように、そして景観を損なわないようにとの心配りなんでしょう。
下諏訪宿中山道を歩きながら感じていた「おもてなしの心」が、ここまで行き届いているとは!

それで思い出したのが、わが高崎城址この景観です。
えらい違いですなぁ。
これはいけませんよ、これは。

「旦過の湯」の近くに、岡本太郎画伯の書で「万治の石佛」と刻まれた石碑がありました。

画伯が、「こんな面白いもの見たことない。」と絶賛したんだそうですね。

見てみたいものの一つでした。

で、行ってみました。

万治という人が彫った石仏なのかと思っていたら、万治三年(1660)に作られたからなんですね。

胴体とお顔のアンバランスさがユーモラスだということですが、お顔だけでも充分ユーモラスでした。

「万治の石仏」から砥川沿いに下りてくると、ここにも岡本画伯の「万治の石佛」碑がありました。

「旦過の湯」のところの石碑より、こちらの方が古そうな風合いですが、なぜ離れた場所に2つあるのか、その謂れは分かりません。
どなたか、ご存知の方はご教授ください。

春宮「御柱」です。

もっと、つるんとした木かと思っていたのですが、枝を落とした痕がゴツゴツと残っているんですね。

これを見たら、男たちが御柱に跨って転げ落ちる、あの坂も見たくなってきました。

春宮から2.7kmくらい車で走ると、TVでよく見るあの坂がありました。

「木落とし坂」というんですね。



近くに「大山祇神」を祀った「木落社」というのがありましたが、「木落し」の度に新しい社殿を作って安全を祈願するのだそうですから、やっぱり危険な行事だということでしょう。

坂の上まで行って、その恐さを実感しました。
斜度45度、高さ100mだそうです。
「男見るなら 七年一度
    諏訪の木落し 坂落し」
とか。

あぁ、高崎に生まれてよかった・・・。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:58
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2011年08月03日

奈良井宿へ行ってました

「おひさま」といえば奈良井宿、ということで行って参りました。

途中、何とも渋い建物が目に入りました。

お蕎麦屋さんか農産物直売所かと思いきや、これがなんと!中央本線贄川(にえかわ)駅でした。


こちらは、贄川駅のトイレです。→

贄川駅は、昭和六十二年(1987)の国鉄民営化前に既に無人駅になっていたようですが、このトイレが今の姿に改修されたのは昨年だそうです。

塩尻の観光ガイドマップの表紙には「街道ロマン探訪の旅」とあり、中には「歴史と文化が交差する宿場町探訪」と書いてあります。
観光のコンセプトを歴史街道「木曽路」に絞って、それに相応しい沿線整備に力を入れているのでしょう。
これからの地方都市は、「歴史」をキーワードとした「観光」に力を入れることが大切だと思います。
そこに気付かないと、どんどん水を開けられてしまいそうな気がします。

贄川駅のちょっと先に贄川関所がありましたので、休憩も兼ねて見学をさせて頂きました。





建物の風合いや石の載った屋根などを見ると、よく残しておいたものだなぁと思いましたが、実は昭和五十一年(1976)に復元したものだとか。

贄川関所は明治二年(1869)に閉所となり、その時に建物も取り壊されたようです。
立て看板によると、「明治九年の贄川村誌の『古関図』や寛文年間の『関所番所配置図』によリ現在の位置に復元した」とあります。
元あった場所は、いま線路になっている所だということです。

贄川宿にも寄り道したい衝動を必死にこらえて、奈良井宿へやってきました。





グンブロガー・風子さんの記事を見て、一度見てみたいと思っていた「木曽の大橋」は、そりゃ素晴らしい橋でした。

この橋を見たら、誰でもきっとこのアングルから撮りたくなると思います。

「木曽の大橋」のすぐ傍にあるこの建物、小さな旅籠のような風情ですが、「檜乃香和家」(ひのきのかわや)と書いてあります。
「かわや(厠)」、トイレだったんですね。
すきだなぁ、こういうの。

水路にもなっている線路下の地下道を潜ると、奈良井宿の北の端に出ます。

そこに、贄川駅と同じ趣きの奈良井駅がありました。
いいなぁ。

「おひさま」で、陽子真知子育子松本へ映画を見に行く時、待ち合わせの場所にしたという「二百地蔵」へ行ってみました。


お地蔵様が二百体並んでいるのかと思ったら、並んでいるのは観音像で、その場所が地蔵堂前だったということなんですね。




下り路で、またこんなのを見つけました。

「音入」って書いてあります。
「おトイレ」なんでしょうね。

すきなんですってば、こういうの。

宿場はもう「おひさま」だらけです。

「おひさま」だらけの割には、雨傘を売ってるお店が多かったってのも面白いですが。


しもた屋にも屋号の札が掛けられ、夫々の家がちょっと目を引くものを飾り付けていて、「あぁ、町がひとつになってるんだなぁ」と感じさせます。


消火栓ボックスも、景観を壊さぬような配慮をしています。

ただ、「惜しいなー!」と思ったのがこれです。↓


空き缶入れはちゃんと木箱になっているのに、自販機が・・・。
メーカーの気配りで茶色にでもしてくれたらよかったのになぁ、なんて。

「おひさま」で、飴屋・村上堂として使われた、元櫛問屋・中村利兵衛の家です。
天保八年(1837)の大火後に建築されたという、歴史ある建物です。

実はこの建物が、今の奈良井宿を整備するきっかけになったのだそうです。

昭和四十四年(1969)、中村邸の建物を川崎「日本民家園」へ移築するという話が持ち上がり、その問題を契機に地域住民の町並み保存に対する関心が高まって、重要伝統的建造物保存地区の選定を受けるまでになったというのです。

この素敵な町並みも、ただ昔の建物が残っていたから、というだけではなかったのですね。

その建物をスポットではなく、線にし、面にする努力がなければ町並みにはなりません。




地域の人々の熱い思いがひとつにならなければ、朽ちて行くのをただ待つだけの町になってしまいます。
「奈良井宿保存委員会」発行のマップに書かれている最後の言葉が、なぜか私の心に響きました。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:51
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2011年08月06日

恋野へ行ってました

奈良井宿からもう一足延ばして、妻籠宿を目指しました。
グンブロガーはるなのフルーツさんの記事にたびたび登場するので、興味をそそられていました。

妻籠宿へ着いたときはもう日が暮れかかり、お宿の行燈には明かりが灯っていました。

ひとっ風呂浴びてから、夕涼みがてら宿場を散策しに出かけました。





なぜか、日が暮れるまで遊んでいた子どもの頃を思い出します。


とっぷりと日が暮れると、街路灯のない宿場町は家々の軒灯の灯りだけになります。

すっかり明るすぎる夜に慣れてしまった私には、ワクワクするほど魅惑的な風景です。


翌朝早く散歩に出たら、宿のすぐ前に崖のようなのがあって、「鯉岩」という看板が立っていました。


           ↑
木曽の地らしく自然木の板に由来が書かれていましたが、ここの地名「恋野」の由来も書いてありました。
「恋野」・・・、いい響きですねー。

文字通り、高いところに高札場があって、その前に朽ちかかったような水車小屋があります。

感心したのはこの水車、ちゃんと管理されていて、夜は水を止めて朝になると流すようにしているんです。

水は豊富に流れているのに、そうした管理をしているのは、水車の保全のためでしょうか、あるいは安眠のためでしょうか。
いずれにしても、この水車を大切に思ってるんだな、と感じました。

宿内は、10時~16時まで車両通行止めです。

今にも、三度笠に楊枝を咥えた紋次郎が、道中合羽を翻しながら歩いてきそうな雰囲気です。




妻籠宿には、多くの歴史資料館があって驚かされます。

←ここは、代々庄屋や問屋を務めた家の旧宅を歴史資料館にしています。

すぐ隣の「脇本陣」歴史資料館で、家の屋号が「奥谷」ということです。

この家は島崎藤村の詩「初恋」のモデルになった女性が、嫁いだ先だそうです。

まだ上げ初めし前髪の・・・ってひとですね。

そういえば、同じく歴史資料館になっている「本陣」は、島崎藤村のお母さんの生家だとか。

「本陣」は、明治時代に取り壊された建物を、残された江戸時代の間取り図を基にして、平成七年(1995)に復元されています。
それら3つの歴史資料館を合わせて、「南木曽町博物館」と称しているそのことだけで、この町がどれほど郷土の歴史を大切にしているかがわかります。

「本陣」の隣には、平成十三年(2001)に民家を改造して造った「妻籠宿ふれあい館」があります。

無料休憩所にもなっているここは、地元工芸品の実演販売や、朝市などの各種イベントに使われています。

空き店舗に頭を痛めている地方都市には、大いに参考になる事例だと思います。

このところ気になっているトイレですが、妻籠のトイレもなかなかのものです。

むかし、金貸しはその家の便所を見て、貸すかどうかを決めると聞いたことがあります。
企業再建の神様と言われる人も、真っ先にトイレの改修から手を付けるとも聞きました。

単なる排泄物処理施設ではなく、魂が現れる神聖な場所なのでしょう。
家でも、企業でも、町でも、そして使う方も、よくよく心しなければならないと思います。

あー、もうずいぶん長い記事になってしまいました。
まだ書きたいことは沢山あるのですが、残りは次回に致します。


  


Posted by 迷道院高崎at 12:07
Comments(2)◆出・たかさき

2011年08月13日

妻籠へ行ってました

信州シリーズ1回お休みしましたが、妻籠宿の続きです。

町の魂を感じる妻籠宿
←こんなところにそれを感じます。

ポスターをベタベタ貼るでもなく、幟旗を林立させるでもなく、それでいて各家々の気持ちがひとつになって訪問者をもてなしている、そう感じさせてくれる町です。




おやおや、猫ちゃんまでが・・・。


「火乃要鎭」・・・火の用心でしょうね。

充てた漢字にも、魂を感じます。
たしかに、消火栓は「火を鎮めるのに必要」ですよね。
左端の郵便受けも、いいなー。

郵便受けといえば、妻籠では郵便局も魂が入っています。

すごいのは、現役の郵便局でありながら、「郵便史料館」でもあることです。
    ↓




↑    .
「書状集箱」も、
現役です。

これは「観光案内所」! →

吾妻村警察署として明治三十年(1897)に建てられた建物は、村役場に使われた後、昭和五十四年(1979)に「観光案内所」となり、現在は「(財)妻籠を愛する会」の事務所にもなっています。

その先に、「ます形」と刻まれた自然石の道標がありました。

風合いや刻まれた文字からして、最近建てられたものでしょう。



傍らに、
「寺下は、1968年、日本で最初に町並み保存工事を始めた。」
という看板があります。

江戸を結ぶ中山道と、信州三河を結ぶ伊那街道が交差する妻籠宿は、交通の要衝として大層賑わっていましたが、明治になり新道や鉄道ができると宿場としての機能を失って、急速に衰退していきました。

下って昭和三十年(1955)代になると、若者の外部流出もあって、ますます過疎化・衰退していったといいます。
そこで住民たちが考えたのが、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している町並みを保存し、観光に力を入れることでした。

その後押しをすることになったのが、昭和四十三年(1968)に全国で取り組まれた、「明治百年記念事業」でした。
長野県は記念事業の一環として、妻籠宿寺下地区の町並み保存を行うことにしたのです。
中心となって活躍したのが「妻籠を愛する会」で、学識経験者や専門家の意見を聞きながら、三ヵ年計画で町の復元・修景を行ったということです。

その時、住民たちで取り決めたのが、「売らない、貸さない、壊さない」という町並み保存の三原則で、今も「妻籠宿住民憲章」として頑なに守られています。

そして、その努力が実って、昭和五十一年(1976)「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。


「桝形」を通って、寺下地区へ入ってみましょう。





道路さえコンクリートでなければ、そこはもう間違いなく江戸時代です。

寺下地区を抜けたら、こんな素敵なコンクリート橋に出会いました。

独特なアーチがとても懐かしい感じを抱かせる「尾又橋」は、昭和三十二年(1957)の築造です。

「告 通行人は左の橋を渡るべし 妻籠宿役人」
という立札が建っていましたが、誰もいなかったので、アーチ橋の方を渡ってみました。
一応、「左の端(はし)」を・・・。

「尾又橋」の下を流れるのは、名前も素敵な「蘭(あららぎ)川」

ここは、左上に見える「妻籠発電所」の放水口でもあり、下流にある「蘭川発電所」の取水口でもあります。

昭和九年(1934)開設の、なぜか
 関西電力「妻籠発電所」です。
          ↓
レトロな趣きと色をした建物や、黒く塗られた門と塀が、妻籠宿の風景によく溶け込んでいます。

水の豊富な木曽川水系には、長野県側だけでも24基の水力発電所があります。

洋々として大洋を充たし
発しては雲となり雨と変じ
凍りては玲瓏たる氷雪と化す
然もその性を失わざるは水なり」

と、「水五訓」の中で詠まれたは、古くて新しい究極の再生可能エネルギーではないでしょうか。

あわや過疎の村として消え去らんとした妻籠宿も、見事に再生しました。
住民一人一人の「郷土の歴史を愛する思い」もまた、町の再生可能エネルギーです。
「水五訓」の、残りの四訓を見てみましょう。

一、 自ら活動して他を動かしむるは水なり
一、 常に己の進路を求めて止まざるは水なり
一、 障害に遭いて激して勢を百倍するは水なり
一、 自ら潔うして他の汚濁を洗い 然も清濁併せ容るるは水なり

いろいろなことを考えさせられた今回の信州旅行のルポも、ここでひとまず筆を置きます。
長い間お付き合い頂いた読者の皆様に、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。


  


Posted by 迷道院高崎at 06:57
Comments(4)◆出・たかさき

2011年11月09日

諏訪の浮城を見てきました

さて、どこのお城でしょう。
なんとも素晴らしい景観ですね。

高崎城と同じく明治維新によって城の建物が売却・破却されましたが、昭和四十五年(1970)に市民の熱意によって復元されたという、諏訪市「高島城」です。

かつては諏訪湖の水が城際まで来ていて、湖上に浮いたように見えたことから「諏訪の浮城」と呼ばれたそうです。

庭園内には、城の歴史から復元に至る経緯が刻まれた、立派な石碑が建っています。

高島城の主・諏訪氏が治めた二百六十余年間、一度も百姓一揆が起きなかったとあります。

復元された天守閣の下に建つ、これも立派な「復興碑」には、
「たまたま復興の世論が興り、七千百余人の寄附により約一億円の費用を投じて復興したものである。」
と刻まれています。

天守閣の中は、資料館になっています。
中は撮影禁止になっていましたので、HPでご覧ください。
  ◇高島城 城内のご案内

最上階に展示されていた高島城と城下町のジオラマは、地元の小学生が卒業記念に製作したものだそうですが、最上階から見下ろす現代の町並みとの比較ができる素晴らしいものでした。
高崎も、せめて市役所の21階にこんなのがあったらなぁ、と思いました。

高島城復元当時の諏訪市長・岩本節治氏の設計によるという庭園の池です。

池の形は、諏訪市が人の心の和によって益々発展するようにとの願いから、「人」という字の形になっているそうです。

写真ではわかり難いかも知れませんので、高島城公園の配置図で見てください。

復元された高島城は、鉄筋コンクリート造です。

石垣の上もコンクリートで塗り固められていますし、木材を使っているように見える下見板張りもコンクリートに着色したものです。

「なーんだ、コンクリートか。」と言う人もいると聞きましたが、私にはこれで充分、当時復元に関わった人たちの心意気が感じられて、羨ましくて仕方ありません。

「高島城」「高崎城」、文字は一つしか違いませんが、思いは大きな違いがあったようです。




  


Posted by 迷道院高崎at 17:56
Comments(8)◆出・たかさき

2011年11月16日

ちょいと いい風景

仕事帰りに見かけた、小菊の畑。

看板に感動!

荒子町のみなさんでした。




  
タグ :小菊


Posted by 迷道院高崎at 06:52
Comments(6)◆出・たかさき

2011年11月23日

上田城を見てきました(1)

いまだに、「高崎城」を復元できないものかと妄想している迷道院は、信州「上田城」を見に行ってきました。

へそ曲がりなもので、正面を避けて「西櫓」のある「西虎口(こぐち)」からの登城です。
崖下の駐車場は、かつて尼ヶ淵という川が流れていて、その河岸段丘の崖は天然の要害となっていたそうですが、それは一目瞭然です。


崖上の「西櫓」はとても綺麗で、最近造られたもののように見えますが、実は、取り壊しをまぬがれて唯一築城当時からここに残っているだそうです。

上田城は、明治四年(1871)の廃藩置県で、陸軍の東京鎮台第二分営の管轄下に置かれます。
しかし明治六年(1873)に分営が廃止されると、その翌年から民間への払い下げが始まり、門や櫓、建物、石垣のほか、畳や植木に至るまで売られていったそうです。

唯一残った「西櫓」は昭和三年(1928)に改修され、歴史資料館「徴古館」として昭和二十八年(1953)まで使われました。
その後、資料館は復元された南・北櫓内に移りましたが、そこに、払い下げが始まった当時の写真が展示されていました。

←取り壊しが始まった頃の「本丸東虎口(こぐち)」です。

「南櫓」はすでに撤去され、「櫓門」「北櫓」はまだ残っています。
左奥に「西櫓」が見えます。

「櫓門」「北櫓」もなくなりました。→





「西櫓」だけが、ぽつんと残っています。


次々と売却されて桑畑や麦畑に変貌していく上田城の姿に深く心を痛めたのが、上田藩御用達の材木商を営んでいた丸山平八郎直養という人でした。
明治七年(1874)、丸山氏は本丸跡地すべてと「西櫓」を買い取り、保存したのです。

明治十二年(1879)頃になって、本丸跡地に松平氏を祀る「松平神社」を建設したいという話が、旧藩士から持ち上がります。
上田城というと真田氏のお城というイメージが強いですが、真田氏が居城していたのは天正十一年(1583)から慶長五年(1600)までのわずか17年間です。

その後は、事実上廃城となっていた上田城を復興させた仙石氏が80年間、それを引き継いだ松平氏が宝永三年(1706)から明治になるまでの162年間、城主を務めていました。

「松平神社」建設の話を受けた丸山平八郎氏は、すぐに本丸跡地の南側半分を神社用地に、「西櫓」とその周囲の土地を上田城最後の藩主・松平忠礼(ただなり)公に寄付したのです。

さらに明治十八年(1885)には、公園にするという約束で残りの土地すべてを上田市に寄付しています。

これが現在の「真田神社」「上田城跡公園」の礎となりました。

昔は、偉い人がいたものです。

また丸山平八郎氏は、「西櫓」の向かい側にあった石垣を、上田市常磐城(ときわぎ)の自宅に移築・保存しています。
この「丸山邸」も、隠れた観光名所になっているようです。
 ◇夢野銀次氏ブログ
   「上田城石垣は『たそがれ清兵衛』のロケ地にある」
 ◇池ちゃん氏ブログ
   「上田市 丸山邸」

2010年11月に市内企業などと長野大学が設立したNPO「信州上田文化デザイン研究会」は、「上田市や周辺の都市計画やまちづくりは、産官学連携強化の必要性がある。」として、「上田城とその周辺地域を含めたグランドデザイン計画」を提唱し、自治会ごとのまちづくりや、地域活性化の取り組みを結ぶ活動を始めました。(うらやましい!)

そしてその一環として、「丸山邸」と敷地内の蔵などを「平八郎茶屋」「赤松小三郎記念館」として改修・整備を行い、この11月20日に一般公開する予定になっていました。
ところが、その矢先の11月8日未明、「丸山邸」の土蔵が全焼してしまうというアクシデントに見舞われます。
  ◇信濃毎日新聞
     「上田の「丸山邸」土蔵全焼 明治期の建築」
  ◇komatuhime氏ブログ
     「丸山平八郎宅全焼」

「信州上田文化デザイン研究会」では、何とか事業を継続していきたいと語っておられるようです。
これまでも、上田城の危機を市民力で救ってきた上田市の方たちです。
必ずや、素晴らしい記念館をもう一度私たちに見せて頂けることと確信しております。
事業の成功を、陰ながら、そして心よりお祈り申し上げます。



  


Posted by 迷道院高崎at 07:56
Comments(2)◆出・たかさき