22年前の今日、お袋は80歳で旅立ちました。
私は会社の宿泊研修で榛名湖畔にいたため、見送りには間に合いませんでした。
苦労して育ったお袋は、子どもの頃の写真がありません。
この写真は一番どん底だった頃、5歳の私と一緒に、高崎公園で撮ったものです。
保証人になったがために、高崎駅前に開いていた店を失い、公園近くの知合いの家に、一家四人で間借りしていました。
記憶力の乏しい私が鮮明に覚えている、この頃の記憶があります。
お袋と公園の近くを歩いていた時、八百屋のガラス容器の中にある「貝のヘリ」を、なぜか無性に食べてみたくなったのです。
「母ちゃん、あれ買ってー。」とねだります。
お袋は財布から2円を取り出して、「買ってきな。」と私一人に買いに行かせました。
後日聞くと、そのとき財布の中には、その2円しか入ってなかったそうです。
大人じゃ2円持って買いには行けないけれど、子どもになら売ってくれるだろうと思ったようです。
しかし、八百屋のおじさんは売ってくれませんでした。
「ほらみー(ほらみてごらん)、売ってくれないじゃないかー!」と、泣いてお袋の所に駆け戻ります。
そのあとのことは記憶にないのですが、「少しでいいから売ってやってくれ。」と頼んだけど、「2円じゃ、売りようがねえ。」と言われたそうです。
お袋は、「あの時ほど、みじめだと思ったことはなかった。」と、この話をするたびに言っていました。
私も、いまだに「貝のヘリ」を見ると、その時のお袋の気持ちを思って、鼻の奥がツーンとなります。
お袋は、7人兄弟姉妹の次女として生まれました。
貧しかったので、小学4年生で子守奉公に出されます。
「ろくすっぽ学校に行かなかったけど、小学校の免状だけはお情けで貰った。」と言ってました。
嫁いでからは、姑で苦労し、昔気質の夫にも苦労して、おまけに人の良さが災いして、他人の借金で長いどん底生活を味わうという、苦労続きの人生でした。
それでも、生涯、人の良さを失うことのなかったお袋でした。
「あの頃みんな(?)貧乏だった」にも、ちょこっとエピソードを載せてます。
私は会社の宿泊研修で榛名湖畔にいたため、見送りには間に合いませんでした。
苦労して育ったお袋は、子どもの頃の写真がありません。
この写真は一番どん底だった頃、5歳の私と一緒に、高崎公園で撮ったものです。
保証人になったがために、高崎駅前に開いていた店を失い、公園近くの知合いの家に、一家四人で間借りしていました。
記憶力の乏しい私が鮮明に覚えている、この頃の記憶があります。
お袋と公園の近くを歩いていた時、八百屋のガラス容器の中にある「貝のヘリ」を、なぜか無性に食べてみたくなったのです。
「母ちゃん、あれ買ってー。」とねだります。
お袋は財布から2円を取り出して、「買ってきな。」と私一人に買いに行かせました。
後日聞くと、そのとき財布の中には、その2円しか入ってなかったそうです。
大人じゃ2円持って買いには行けないけれど、子どもになら売ってくれるだろうと思ったようです。
しかし、八百屋のおじさんは売ってくれませんでした。
「ほらみー(ほらみてごらん)、売ってくれないじゃないかー!」と、泣いてお袋の所に駆け戻ります。
そのあとのことは記憶にないのですが、「少しでいいから売ってやってくれ。」と頼んだけど、「2円じゃ、売りようがねえ。」と言われたそうです。
お袋は、「あの時ほど、みじめだと思ったことはなかった。」と、この話をするたびに言っていました。
私も、いまだに「貝のヘリ」を見ると、その時のお袋の気持ちを思って、鼻の奥がツーンとなります。
お袋は、7人兄弟姉妹の次女として生まれました。
貧しかったので、小学4年生で子守奉公に出されます。
「ろくすっぽ学校に行かなかったけど、小学校の免状だけはお情けで貰った。」と言ってました。
嫁いでからは、姑で苦労し、昔気質の夫にも苦労して、おまけに人の良さが災いして、他人の借金で長いどん底生活を味わうという、苦労続きの人生でした。
それでも、生涯、人の良さを失うことのなかったお袋でした。
「あの頃みんな(?)貧乏だった」にも、ちょこっとエピソードを載せてます。
どんな時でもへこたれず、「思うは叶う」が口癖でした。
そんなお袋に、この歌を贈りたいと思います。
「僕が生まれた時のこと」作詞・作曲・唄:安達充
そんなお袋に、この歌を贈りたいと思います。
「僕が生まれた時のこと」作詞・作曲・唄:安達充