
最近造成された団地用の、ありふれた公園と思いがちですが、この「蟹沢」という名前の由来を、偶然知ることができました。
きっかけは、「高崎の散歩道 第四集」の吉永哲郎氏の、こんな記述でした。(迷道院・要約)
「五万石騒動のあった明治二年(1869)と翌年、群馬県下は二年続きの暴風雨により、穀物は極端な不作でした。
その上、政権が徳川幕府から明治新政府に代わった「御一新」直後とあって、政情不安が重なって、多くの浮浪人が路頭に迷いました。
街道の往来が多かった常慶橋付近にも、各地からの浮浪人がやって来て、たむろしていました。

そこで、下大類の豪農、K家では、浮浪人の救済を目的に、自宅から井野川までの水路工事を行います。
仕事をすれば、ご飯をもらえるということで、このことを「おまんまありがたい」といったのだそうです。
その時に浮浪人達によって掘った堀が今でも残っています。」
何でもお上に頼らず、出来ることは自分たちでやる。
持てる者が、持たざる者を助ける。
助けられた者は、そのことに感謝する。
そんな話に感激し、残っているという堀を探してみることにしました。
本の中では、その堀がどこにあるかまでは、記載されていませんでした。
手掛かりは、「常慶橋のたもと」「豪農・K家」「井野川に合流する水路」ということで、まず井野川に合流する水路近くのKさんを探してみました。
しかし、それがないのです。
探し歩いていると、常慶橋のたもとで花の手入れをしているご婦人がいたので、お聞きしてみました。
すると、道を挟んだ向かいの家がKさんだと言うので、訪ねてみました。
行ってお尋ねすると、「そりゃぁ、本家だ。」ということで、地図まで書いて頂きました。
すんなりは辿りつかなかったのですが、何とかそれらしい家を見つけ、ちょうど玄関までの長い通路で草むしりをしている方に声をかけてみました。
それが、ご主人でした。

「今は三面コンクリートになっちゃってるけど・・・。」と言って、案内して下さったのが写真の水路です。
ご主人のお話では、K家は昔「あぶらや」という屋号で、灯火用の油を絞って売っていたそうです。
当時は、井野川のほとりに13棟の大きな蔵を有していたといいます。
浮浪人に作らせたという堀は、長野堰用水の水を田畑に引き込みながら、井野川に落とすものだったようです。
三面コンクリートになる前は、写真右側の椿の木辺りまで幅があり、跨いで飛び越すのは難しかったといいます。
堀の端には、柳の木がずーっと植えられていたそうです。
また、この堀には、井野川からナマズやウナギ、そして蟹が沢山上ってきたので、通称「蟹沢」と呼ばれていたのだそうです。

と言いながら、水路を見て「ドジョウはいますね。」と声をあげました。
見ると、一匹のドジョウが水路を上ろうともがいています。
さらに、タニシの姿もいくつか見えます。→

「蟹沢」は、この公園内の水路を流れる予定だったと思われますが、現在は公園に入る直前で無理やり直角に曲げられ、暗渠のまま下水路に流れ込んでしまっています。

もしも、「蟹沢」が昔のように井野川に注ぎ込んでいたら、こんな風景になっていたのでしょう。→
もしも、昔のように素掘りの「蟹沢」であったら、蟹やナマズやウナギが上っていたのでしょう。
もしも、「おまんまありがたい」の心が、今に伝わり残っていたら・・・。
残すことの大切さを、改めて感じさせられた日でした。
【蟹沢公園】
【現在の「蟹沢」】