遠野での宿泊は、「遠野物語発刊百周年ありがとうプラン」一泊二食付きで8,000円という格安料金に惹かれ、「あえりあ遠野」にしました。
「あえりあ遠野」は、市民センターも兼ねた宿泊施設として、平成十三年(2001)にオープンしました。
施設の名前は、市民から公募して選ばれたもので、「沢山の人々がふれあい、交流をするためのエリア」という意味が含まれているそうです。
「あえりあ遠野」のエントランスに、巨大な伐り株があります。
傍らに立っている説明板によると、樹齢120年というポプラの大樹だったようです。
説明板には、ありし日のポプラの写真が添えられています。
ポプラが天寿を全うして伐採されたのは、つい2,3年前のようですが、古いものを大切にする、いかにも遠野らしい伐採のしかただと思いました。
「あえりあ遠野」の前に、こんな洒落た電話ボックスがありました。
民話のふるさとらしく「伝話の家」となっているのが、いいですね。
後ろの「海鼠(なまこ)塀」の内側は、盛岡地方裁判所遠野支部ですが、その昔は郷校「信成堂」、後に「江刺県庁舎」の跡だそうです。
大きな石碑には「遠野教育発祥の地」と刻まれています。
清流、来内川のほとりに、昭和六十一年(1986)オープンしたのが、
「とおの昔話村」です。
案内板には、こう刻まれています。
明治四十一年十一月四日、柳田國男と佐々木喜善の運命的ともいえる出会いによって著された「遠野物語」。
その舞台の遠野の里には、数百年の時を超えて、いまだ多くの昔話が語りつがれている。
「とおの昔話村」は、「遠野物語」誕生の経緯とその背景、そして昔話の数々を広く紹介する施設として、さらには新しい伝承のあり方を模索する場として、ここに開村した。
柳田國男の胸像が建っているこの場所は、元・造り酒屋があったところだそうです。
その蔵は、いま「物語蔵」として柳田國男の生涯を紹介する展示場になっています。
蔵の右隣りにある、格子戸の付いた建物は何だと思いますか?
実は、こんなのです。
なんとも、憎らしいくらいのこだわりですね。
像の後ろにある建物は、柳田國男が定宿としていた「旧・髙善旅館」です。
明治から昭和にかけて遠野の町なかにあった、代表的な旅籠屋だそうですが、廃業後ここへ移築し、「柳翁宿」(りゅうおうじゅく)として内部を公開しています。
柳田國男は、東京都世田谷区成城に隠居所を設け、八十八歳で他界するまでそこで余生を過ごしました。
その隠居所を、ここ遠野にまで移して復元しているのですから、恐れ入ります。
来内川沿いの遊歩道には、こんな素敵なスペースがありました。
ここまで見ただけでも、遠野の町づくりへのこだわりと熱意、そして知恵と工夫が感じられたのではないでしょうか。
実は、まだまだお伝えしたいことが沢山あるのですが、今回も長くなってしまいました。
次回で、たぶんお伝えし切れると思います。
もう一回だけ、遠野編にお付き合いください。
「あえりあ遠野」は、市民センターも兼ねた宿泊施設として、平成十三年(2001)にオープンしました。
施設の名前は、市民から公募して選ばれたもので、「沢山の人々がふれあい、交流をするためのエリア」という意味が含まれているそうです。
「あえりあ遠野」のエントランスに、巨大な伐り株があります。
傍らに立っている説明板によると、樹齢120年というポプラの大樹だったようです。
説明板には、ありし日のポプラの写真が添えられています。
ポプラが天寿を全うして伐採されたのは、つい2,3年前のようですが、古いものを大切にする、いかにも遠野らしい伐採のしかただと思いました。
「あえりあ遠野」の前に、こんな洒落た電話ボックスがありました。
民話のふるさとらしく「伝話の家」となっているのが、いいですね。
後ろの「海鼠(なまこ)塀」の内側は、盛岡地方裁判所遠野支部ですが、その昔は郷校「信成堂」、後に「江刺県庁舎」の跡だそうです。
大きな石碑には「遠野教育発祥の地」と刻まれています。
清流、来内川のほとりに、昭和六十一年(1986)オープンしたのが、
「とおの昔話村」です。
案内板には、こう刻まれています。
明治四十一年十一月四日、柳田國男と佐々木喜善の運命的ともいえる出会いによって著された「遠野物語」。
その舞台の遠野の里には、数百年の時を超えて、いまだ多くの昔話が語りつがれている。
「とおの昔話村」は、「遠野物語」誕生の経緯とその背景、そして昔話の数々を広く紹介する施設として、さらには新しい伝承のあり方を模索する場として、ここに開村した。
柳田國男の胸像が建っているこの場所は、元・造り酒屋があったところだそうです。
その蔵は、いま「物語蔵」として柳田國男の生涯を紹介する展示場になっています。
蔵の右隣りにある、格子戸の付いた建物は何だと思いますか?
実は、こんなのです。
なんとも、憎らしいくらいのこだわりですね。
像の後ろにある建物は、柳田國男が定宿としていた「旧・髙善旅館」です。
明治から昭和にかけて遠野の町なかにあった、代表的な旅籠屋だそうですが、廃業後ここへ移築し、「柳翁宿」(りゅうおうじゅく)として内部を公開しています。
柳田國男は、東京都世田谷区成城に隠居所を設け、八十八歳で他界するまでそこで余生を過ごしました。
その隠居所を、ここ遠野にまで移して復元しているのですから、恐れ入ります。
来内川沿いの遊歩道には、こんな素敵なスペースがありました。
ここまで見ただけでも、遠野の町づくりへのこだわりと熱意、そして知恵と工夫が感じられたのではないでしょうか。
実は、まだまだお伝えしたいことが沢山あるのですが、今回も長くなってしまいました。
次回で、たぶんお伝えし切れると思います。
もう一回だけ、遠野編にお付き合いください。