先日、歴史民俗資料館主催の「三国街道史跡めぐり」の時、参加者の中に、元高崎市史編纂委員の中村茂先生がいらっしゃることに気付きました。
中村先生には、昨年「高崎五万石騒動史跡めぐり」がご縁で、拙ブログにコメントを頂いたこともあります。
そのコメントの中で、九蔵町の大雲寺に、武田信玄の軍師として有名な山本勘助の子孫のお墓があると教えて頂き、「号外!高崎に住んでた山本勘助」という記事を書かせて頂きました。
そんな話を先生にしていたら、カバンの中から
←このチラシを出して見せてくれました。
今、山梨県立博物館で山本菅助の企画展をやっているというのです。
山本菅助と言えば武田信玄、武田信玄と言えば甲州山梨ですから、少しも不思議はないのですが、企画展のタイトルが「実在した・・・」となると、大いに気になります。
実在をほぼ決定づけたのは、安中で発見された真下家文書です。
そのことを、山梨ではどのように扱っているのか、大いに気になるところです。
で、行ってきました。
面白かったのは、受付で「JAFの割引はききますか?」と聞くと、
「JAF割引はないんですが、山梨県内のホテルや旅館に宿泊すると割引になります。」と言うんです。
それじゃ、ということで領収書を見せて100円割り引いて頂きました。
粋な計らいだと思いますよね。
高崎も、取り入れたらどうでしょう。
館内は撮影禁止なので、入口のパネルディスプレイだけご覧ください。
展示の一部は、博物館のHPでご覧いただけます。
山本勘助が架空の人物とされてしまった経緯、それが近年になって一転、実在の人物とされるまでの経緯が、時系列的に分かりやすく展示されていました。
学芸員の方も、積極的に来館者への説明をされており、とても好感が持てました。
展示資料の中には、安中で発見された古文書、高崎の大雲寺にある菅助子孫の墓の写真パネルも展示されており、協力者として中村先生のお名前もありました。
そして、もうひとつ意外な物が紹介されていたのです。
それは、高崎城の構造を記した「高崎城大意(たかさきじょう・たいい)」という書物が、山本菅助と関係のあるものとして展示されていたことです。
五代目菅助である山本十左衛門幸運は、元禄八年(1695)松平輝貞が高崎藩に転封されたのに伴って、高崎にやってきます。
このとき十左衛門が、高崎城の構造を詳しく記述し、輝貞に呈したのが「高崎城大意」だと解説されていました。
その高崎では、まだ「高崎城大意」が、山本菅助と関係しているとは、広く知られていないようです。
古城塁研究者の山崎一氏が、昭和四十二年(1967)に校註した「高崎城大意」の中でも、「山本十左衛門は元禄・享保の頃の高崎藩の軍学者」とあるのみです。
高崎藩内では、、五代目菅助・山本十左衛門に甲州流軍学を学び、「高崎城大意」は築城の軍学書として用いられます。
その成果あって、高崎藩には優れた軍学者が生まれることになったようです。
安政元年(1854)蝦夷・松前城の設計をしたのは、高崎藩の軍学者・市川一学であると言われています。
遠い山梨で、知らなかった高崎の宝を再発見しました。
その宝が、地元・高崎でほとんど知られていないことは、実にもったいないと思います。
できれば、山梨県立博物館とのジョイント企画で、群馬県立歴史博物館でも「山本菅助展」が開催できないものでしょうか。
中村先生には、昨年「高崎五万石騒動史跡めぐり」がご縁で、拙ブログにコメントを頂いたこともあります。
そのコメントの中で、九蔵町の大雲寺に、武田信玄の軍師として有名な山本勘助の子孫のお墓があると教えて頂き、「号外!高崎に住んでた山本勘助」という記事を書かせて頂きました。

←このチラシを出して見せてくれました。
今、山梨県立博物館で山本菅助の企画展をやっているというのです。
山本菅助と言えば武田信玄、武田信玄と言えば甲州山梨ですから、少しも不思議はないのですが、企画展のタイトルが「実在した・・・」となると、大いに気になります。
実在をほぼ決定づけたのは、安中で発見された真下家文書です。
そのことを、山梨ではどのように扱っているのか、大いに気になるところです。
で、行ってきました。
面白かったのは、受付で「JAFの割引はききますか?」と聞くと、
「JAF割引はないんですが、山梨県内のホテルや旅館に宿泊すると割引になります。」と言うんです。
それじゃ、ということで領収書を見せて100円割り引いて頂きました。
粋な計らいだと思いますよね。
高崎も、取り入れたらどうでしょう。

展示の一部は、博物館のHPでご覧いただけます。
山本勘助が架空の人物とされてしまった経緯、それが近年になって一転、実在の人物とされるまでの経緯が、時系列的に分かりやすく展示されていました。
学芸員の方も、積極的に来館者への説明をされており、とても好感が持てました。
展示資料の中には、安中で発見された古文書、高崎の大雲寺にある菅助子孫の墓の写真パネルも展示されており、協力者として中村先生のお名前もありました。
そして、もうひとつ意外な物が紹介されていたのです。
それは、高崎城の構造を記した「高崎城大意(たかさきじょう・たいい)」という書物が、山本菅助と関係のあるものとして展示されていたことです。
五代目菅助である山本十左衛門幸運は、元禄八年(1695)松平輝貞が高崎藩に転封されたのに伴って、高崎にやってきます。
このとき十左衛門が、高崎城の構造を詳しく記述し、輝貞に呈したのが「高崎城大意」だと解説されていました。
その高崎では、まだ「高崎城大意」が、山本菅助と関係しているとは、広く知られていないようです。
古城塁研究者の山崎一氏が、昭和四十二年(1967)に校註した「高崎城大意」の中でも、「山本十左衛門は元禄・享保の頃の高崎藩の軍学者」とあるのみです。
高崎藩内では、、五代目菅助・山本十左衛門に甲州流軍学を学び、「高崎城大意」は築城の軍学書として用いられます。
その成果あって、高崎藩には優れた軍学者が生まれることになったようです。
安政元年(1854)蝦夷・松前城の設計をしたのは、高崎藩の軍学者・市川一学であると言われています。
遠い山梨で、知らなかった高崎の宝を再発見しました。
その宝が、地元・高崎でほとんど知られていないことは、実にもったいないと思います。
できれば、山梨県立博物館とのジョイント企画で、群馬県立歴史博物館でも「山本菅助展」が開催できないものでしょうか。
(参考図書:「群馬県立歴史博物館館長講座資料」「群馬県史資料集別巻一 古城史篇」) |